武見太郎(1904~1983)
聖人を積極的に学び、生命科学構築を訴えた日本医師会の"大導師"
江戸庶民に古より"厄除けの祖師"として親しまれ、落語噺(らくごばなし)にも登場する堀ノ内妙法寺(ほりのうちみょうほうじ)。毎年10月13日のお会式(えしき)になると、境内は数多くの万灯(まんどう)練りで、いっそうの賑わいを見せる。
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この妙法寺に明治中ごろから大正にかけて活躍した名僧がいる。
分けても人材育成には才能があった第29世・武見日恕(たけみにちじょう)上人は、茗谷学園という寄宿舎を設け、東京に在学する日蓮宗の子弟や檀信徒に開放、それぞれの大学や高校に通わせた。
石橋湛山(いしばしたんざん)・綱脇龍妙(つなわきりゅうみょう)・守屋貫教(もりやかんきょう)・加藤文雅(かとうぶんが)という人物が、この宿舎から輩出している。
世の中や日蓮宗を動かした人々である。
日恕上人は新潟県長岡市にある武見一族の出身であった。
上人は出家して、親族をみな他宗から日蓮宗へと改宗し、その証として真浄寺(しんじょうじ)(武見潮裕(ちょうゆう)住職)を開いたのであった。
妙法寺へ明治29年(1896)に晋山(しんざん)するが、幼いころから上人の薫陶(くんとう)を受け、後に日本の医学界を代表する人物となった甥っ子がいた。
日本医師会会長を13期25年務め、世界医師会の会長ともなった武見太郎氏である。
明治37年(1904)3月7日、武見可質(かしち)と初(はつ)夫妻のもうけた4男1女の長男として太郎は古都・京都に生を享ける。
父は学校長も務めた熱心な教育者であった。一家は太郎氏が誕生して間もなく上京、東京の寺町・谷中(やなか)に近い上野桜木町に居を構える。
谷中小学校での太郎の成績は群を抜いていた。中学は徒歩で15分ほどの所にある私立の名門・開成(かいせい)学園。入学を果たした太郎は、合格の報を伝えるために一人で堀ノ内に日恕上人を訪ねた。
「太郎! よくやった。お祖師さまのご加護(かご)じゃ」
玄関まで出迎えた上人は破顔一笑、そして自室へ通した。出されたお茶とまんじゅうを食べると、太郎は
「僕はこれから他人(ひと)を助ける道へ進むため、勉学を一所懸命にします」
「武見一族は法華(ほっけ)信者となった。法華経(ほけきょう)には他を救うことが説かれる。その決意はまこと良いことだ」
太郎の言に日恕上人は大いに頷き返したのだった。
幼いころから成長を見守り、精神的にも大いなる影響を与えた日恕上人は、翌年7月化(け)を遷(うつ)してしまう。
精神的支えを失った太郎は、中学3年の時、腎臓結核(じんぞうけっかく)を患い、2年間の療養生活を余儀なくされてしまう。
この闘病生活が後の人生に少なからず影響を与える。 太郎は来る日も来る日も本を貪(むさぼ)り読んだ。 とりわけ世界探検記や生物に関する書物を読み漁(あさ)った。
病がほぼ癒えたある日、日恕上人の墓に詣でた。
「僕は叔父さんに誓った約束を実現するため医者となります。良い医者となるよう見守ってください」
太郎は開成へ復学することなく、慶應義塾普通部へ転校。福沢諭吉翁の独立自尊の精神に魅せられ、4年前に開設された医学部への進学の期待をこめての選択であった。
大正11年(1922)4月、慶應大学医学部に入学、さらに本科へ進み、昭和3年(1928)に卒業し、助手として残ることとなる。
在学中、太郎は仏教・法華経・日蓮聖人を積極的に学んだ。
大学に仏教青年会をつくり、柴田一能師(慶應大学教授)が設けた日蓮聖人讃迎会(さんごうかい)にも入って大いに精神界へ近づいた。
太郎がしばしば口にした"千万人といえどもわれ往かん"は、聖人の魂魄(こんぱく)を換言した言葉であり、それは在学中に育まれたといえよう。
太郎は在学中から経験医学に固執する保守的な体質を嫌い、科学・物理学を導入した医学を構築しようとしたが、指導教授との意見は合わなかったい。
内科教室の助手としてしばらく奉職(ほうしょく)するが、持ち前の反骨精神から博士号も修得せず慶應から去ってしまう。
ところが、拾う神があった。 太郎の研究に着目した理化学研究所の仁科芳雄博士である。
博士の研究室で病理学や原子物理学を応用した医学の道を開き、心電図開発に携わって存在を世に知られるようになる。
昭和14年(1939)4月、臨床医学を展開する場として銀座4丁目の聖書館3階に診療所を開く。
新進気鋭の医師のもとへ科学者・文人・政財界の重鎮(じゅうちん)が集うようになる。
幸田露伴(ろはん)・西田幾多郎(きたろう)・岩波茂雄等。若き日の太郎は、この地で各界の著名人と交わり大きくなっていった。
開業して2年後、華燭(かしょく)の典をあげる。 妻となったのは秋月種英(あきづきたねひで)の次女英子(内大臣牧野伸顕伯爵の孫、伯爵の長女は吉田茂夫人)であった。
19年(1944)11月に長女昭子が生まれ、2男2女を授かる。
太郎の信念は、反骨精神で立ち向かうことだった。 親族に政治と関係のある者が多いこともあってか、医師会政治に加わって医療を刷新していく。
24年(1949)には日本医師会副会長に就任し、「ケンカ太郎」を発揮していくこととなる。
GHQ司令部がチフス菌の人体実験を敢行しようとした時、断固「否」と応え、「日本は戦に負けたが医学では負けていない」と吠えた。
しかし、この件でGHQから圧力がかかり、一時医師会を追放されてしまう。
7ヵ月後、副会長に復帰し、32年(1957)4月には長となる。
これより25年の長きにわたり医師会のドンとしての活躍が始まる。
殊に厚生省との対決、健康保険の問題については凄まじかった。
一方、太郎には大きな夢があった。
それは生命科学(ライフサイエンス)の確立である。
人類の永遠なる発展、真の幸福希求のためには医学と科学、精神文化との融合、すなわち生命科学の構築をしなければならないと訴えた。
この発想は、それぞれ違った能力・個性を互いに認め、積極的に共に生きていくという法華経 薬草喩品(やくそうゆほん)の教えにほかならない。
晩年、太郎氏は妙法寺山主であった茂田井教亨先生と信仰談義をするのを楽しみにしていたという。
日蓮教学の最高権威と医学界の最高峰との語らいは如何ばかりであったろうか。興味津々である。
後に太郎の息子が、武見家の意志を継ぐ証として、茂田井先生にお曼荼羅の染筆を請うている。
茂田井先生は日蓮聖人の檀越であった領家の尼(大尼と新尼)の話をして奉持のあり方を説き、二つ返事で快諾したという。
世界医師会の会長にまで登りつめ、世界に向かって生命科学の重要性を訴え続けた太郎は、58年(1983)12月20日、霊山へと旅立った。
法名太清院醫王顕壽日朗大居士(ほうみょうたいしょういんいおうけんじゅにちろうだいこじ)。
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21世紀を迎えた今日、太郎の訴えは、臓器移植・遺伝子組み替え・地球環境等、あらゆる分野で再評価されている。
さぞや今ごろ、霊山浄土の釈尊や日蓮聖人の御前で熱っぽく生命科学を語っているだろう。