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今月の聖語

今月の聖語

仏の御目には
一一に皆御仏なり

日蓮聖人御遺文「本尊供養御書」/
建治二年(一二七六年聖寿五十五歳)

「凡夫成仏の不思議」
法華経の行者日蓮聖人は、法華経絶対を択一された法華経至上主義者であられる。その絶対の根拠は究極ただ一つ。法華経が、仏教の唯一で最大の目的である「凡夫を仏に成し給う」大法であるからであった。かかる法華経の秘妙さ絶妙さを日蓮聖人は「法華経の不思議」「法華経の御力」と言われ讃嘆されたのである。故に、法華経の文字、その全文、全文字の一字一字は、そのまま挙って仏のご本意・ご本懐すなわち衆生救済をあらわし告げるものである。つまりは、仏そのものであられる。要するに、肉眼・凡眼に見る黒い印字は、智慧の眼・慈しみの眼である仏眼には、変じてみ仏の本体・本質と映るのである。
その一大変化変質、つまり凡夫成仏の大転換、転凡(てんぼん)成聖(じょうしょう)・転凡(てんぼん)入聖(にっしょう)の不思議さを日蓮聖人は言葉に尽くして説き明かされるのである。「法華経の不思議もまた是の如し。凡夫を仏に成し給う。蕪(かぶら)は鶉(うずら)となり、山(やま)の芋(いも)は鰻(うなぎ)となる。世間の不思議以(もっ)て是(かく)の如し。何(いか)に況(いわん)や法華経の御力をや」と。蕪は野菜、鶉は鳥、また山芋と鰻。全然種族を異にするが形状は似る。だから実体はちがうが形が似ていれば誤って見られやすく、あり得ぬことも起こるように、そのようにものごとはよく変化するものであると。一字一仏、変じ転じて凡夫を仏となすことの譬話である。