仏の御意あらわれて
法華の文字となれり
文字変じて又仏の御意となる
日蓮聖人御遺文「木絵二像開眼之事」/
文永十年(一二七三年 聖寿五二歳)
今月の聖語
日蓮聖人御遺文「木絵二像開眼之事」/
文永十年(一二七三年 聖寿五二歳)
「読経(どっきょう)の姿勢」
法華経の全品二十八章。その全部の文字、一々の文字は、どの一字もことごとく釈尊の真実のみ心である。釈尊がご本意を説きあらわしたものである。法華経は釈尊出世の本懐経だから、全ての文字、一々の文字には釈尊のみ心がこもるのである。ご本意が宿らせたまうのである。
法華経を読むもの、このことに深くおもいをひそめ、深信(じんしん)体読(たいどく)して釈尊のみ心に寄り添わなくてはならない。文字をただ文字としてとどめるか、そうではなく変じ転じて仏のみ心を掬(きく)するものとなるか。それは読む者の信受の心、真実信心の人であるか否かによってのみ決定することである。
「仏の御意」を知り解し、つつしんで法華経を読む。そのような深信にもとづく敬虔な法華経の読み手となれかしと。それが釈尊のご意志であり御要請である。