平野譲山常任布教師法話「いのちに合掌」H24/3/28*
平野譲山師は、平成25年2月19日、世寿65歳にて遷化されました。
法号「真如院日現上人」。謹んで増円妙道をお祈り申し上げます。
平野譲山常任布教師プロフィール:静岡県富士市法蔵寺住職
【座右の銘】
「仏さまは見てござる こころの中もすることも」
「人間万事塞翁が馬」
「便利な物は不便ですね」
【コメント】
説教宗学の方法論を考えています。法話論や日蓮聖人伝についてお話しさせていただく機会が多いです。話の基本は人の話をよく聞くことからですね。
【お題目】
お題目を唱えてください、と申し上げなくても、ご一緒にたくさんのお題目を頂戴し、誠にありがたいことでございます。
今日は日頃からお世話になっております。実成寺さんの行事にお招きをいただき、お話をさせていただく場所を頂戴し本当に有難く思っております。
お上人様方もおられるようでございますが、今日は檀信徒の皆様にお話をさせていただきます。
ご当山でも桜の花がちらほら咲いておりますが、
「桜の花は人恋し。」
「桜の花は人恋し。」
こういう言葉がございます。
日頃、お花見されますか?
お花見をなさる時に桜の木の下に昔は茣蓙(ござ)を敷いたようですね。今はビニールシートでしょうか。なぜ茣蓙(ござ)を敷くかというと、茣蓙(ござ)ならば空気・水を通すので根っこに優しい、ということ。
今はビニールシートですから空気も水を通しませんで、その上を人が歩いておりますから、根っこには大変悪いのだそうでございます。
と同時に、お花見をされる時にだいたいお酒を召し上がる方は、宴の方に夢中になってしまいまして、なかなか上に咲いているお花を見上げることがないようでございますが、桜の花というのは、下をむいて咲いているんだそうですね。
ですから、お花見においでになった時には、上を見上げて、
「綺麗だね。」
「今年もよく咲いたね。」
「嬉しいね。」
こういう気持ちでお花を見てあげると桜の花も大層喜ぶんだそうです。
「桜の花は人恋し」ということでございますが、私自身のことで恐縮ですが、
「今年の桜は見られないかもしれないなぁ」と…。
いや、去年のことですから、来年の桜は、ですが…。
実は日頃の不摂生がたたったか、仕事をやりすぎたかわかりませんが、病名でいえば癌というような名前がついているようなものにかかりまして…、
静岡県の県立がんセンターというところで見てもらいましたらば、右の歯肉ですね。歯茎ですね。歯茎にだいぶ進行のものがあると。それが下の顎の骨まで触っていて、このままほっといたら、というような話でございますから、まあ外科手術をすればなんとか大丈夫であろう、というような、先生の指導によりまして手術を受けました。
それで申しましたところの部位でございますから、その歯茎と歯、そうですね。歯と歯茎とその歯茎がのっている顎の骨を、右半分削除致しました。
削除を致したあとはどうするのだろうな、自分が寝ている間の仕事ですから、私はわかりませんが、左足の腓骨という骨を取りまして、ここへくっつけるっていうんですね。すごいですね。今の医学っていうのはね。
それでそれが無事成功して12時間後くらいに目が覚めて、痛くもなんともないもんですから、これは助かったわいというような状態なのですが、面白いですよ。
申しましたように、足の腓骨、あのすねの横にある細い方の骨です。これをちょん切ってこうつけるんですが、骨だけじゃ付きませんから、こう皮、皮っていうんですか、皮膚というんでしょうかね。それをくっつけた状態でここへ移植をして血管をこう手術でくっつけて、そうするとうまくいけば、その細胞が動き出すということなのですが、ここにいますからうまいことくっついたのですが、足の皮ですので、ここからすね毛がでるんですよ。
嘘のような話ですが、私最初、なんだろう。いくら、この口の中を掃除をしても何かくっついているなあ。煩わしいなと思って先生に聞いたら、
「いやそれすね毛です」って。
「どうしたらいいんですか」って言ったら、
「自分でピンセットで抜いてください」って言う。
こんな調子でございますが、その時にお聖人様の
「病によりて道心は起こり候うか。」
というお言葉ではございませんが、経験しなくてもよいことかもしれませんが、経験できて、そして、再びこの娑婆で命をいただけたなと思った時に、思わず手を合わせたのは、私が和尚だからでしょうか。
最初のうちはそういう手術でございますから、言葉も出ませんし口も開きませんでした。
「今大丈夫ですか?」
「言うことわかりますか?」
その時に先生が、病院の先生が「大丈夫ですか?どうですか?」、毎日来てくださる時に、声も出ないし、口も開きませんから、
「大丈夫です、痛くもありません、順調です」という全て意思表示をする時に手を合わせることが当たり前のようになりました。
私が和尚だということはわかっていますから、先生の方も「そうですかそれはよかったですね」と自然に手を合わせて返してくれたのを有難く思いました。
そうこうするうちに檀信徒の方々、役員さんをはじめ、お話できる日にちになって参りました時に、私がそういう病を得た、ということで、檀信徒の方々も、
「実はお上人さん、私もね、胃の方がね。」
「私も肝臓がね。」
「私もどこどこがね…。」
二人に一人とも三人に一人とも言われておりますけれども、
今まで、
「亡くなりました…。」
「あっ残念でしたね。」
ということで、すんでいた檀家さんとの話し合いの中で共通な話題がこの病気でありましたから、そういう思いをぶつけていただけるということに気がついたんであります。
これも病の御利益でしょうか?
桜の花を見上げて見れることが無かったように、檀信徒の方々の思いを、果たして、和尚として、菩提寺の住職として、どれだけ目を向け耳を傾け心を通わせていたであろうかと、そういうようなことを思うようになったわけでございますが、それはそれ。私も生身の凡夫でございますから、やっぱり欲が出るものだなと思いました。
最初は手術がうまくいけばね。それだけで十分。いのちが助かればね、それだけで有難い。しかしこれが日に日に良くなってまいりますと、よくしたもんで、「あっ帰ったら、あれもしたいね、これもしたいね」。
そのうち声が出てくるようになると、病室でお経本を開いて方便品か御自我偈か読めるようになって祈願する。
自分の「身体健全闘病平癒」。
その時にふと思ったのは、癌センターという病院ですから、全ての人がそういう病で入院もし、手術もされている。離れた時には余命が何ヶ月という方も、実はいらっしゃるわけでございます。
自分だけの祈りでよいのかと、今更ながら気付かさしていただいて、自分の「身体健全闘病平癒」を祈る時は、それを欲している人々の思いもいたっての「身体健全」であり「闘病平癒」であるべきであろう。
皆様方も手を合わせて祈られることは、たくさんおありになろうかと思いますが、手を合わせるということはどういうことでしょうか?
昔の人は歌にして教えてくれていますよね。一緒にやってみてください。
「右仏 左私と合わせての うちぞゆかしき 南無の一声」
「右仏、左私と合わせての うちぞゆかしき 南無の一声」
私たちは日蓮宗でありますから、この右手が仏様を表しますよ。お釈迦様ですよね。たくさんの仏様がいますけれども私たちはお釈迦様であります。日蓮宗でありますから、その中にお祖師様もお入れ下さい。ご守護の神様もお入れください。
お釈迦様、お祖師様、日蓮様、ご守護の神様と、凡夫のその私たちが一つになるところに「南無」という祈りの言葉が発せられてくる、こういう歌でございます。
実はこの歌を深く掘り下げてくれた方がおられまして、そのご紹介をさせていただきますが、私たち「布教師」と呼ばれるものでございますが、私はこのような布教師さんになりたいなぁと思った方に京都の三木随法上人という方がおられました。
この三木随法上人は、亡くなられる前に、手を合わせる合掌ということについて、このようなことをお書きになっております。
「ちょっとお聞きください。少し前までは合掌礼をするお坊さんが多かったのですが、合掌礼とは手を合わせて拝むということですね。最近では「よっ」こんにちはと片手をあげて挨拶することの方が多くなりました。法衣の姿もめっきり減った中で、合掌礼をすることによって坊さんらしさが気づけるかもしれません。」
「信者さんが、お坊さんに向かって合掌をする人が、今はまだ少し残っていますので、合掌礼を勧める今が最後のチャンスかもしれません。幼稚園や保育園、収容道場でも食事の時だけではなく、朝夕の挨拶の合掌礼を指導し、各寺院で行事や信行会でも多いに指導していき、合掌礼が日蓮宗徒のシンボルとなるまで広めていければよいと思います。」
結構意識をしながら修行のつもりで実行しなければならないだろうと思います。今、皆様方のお手元にはないかもしれませんが、私たち和尚には宗務院本部から布教方針、日蓮宗はこういう普及をして教えを広めて行こうねという冊子が届いてまいります。
この中に合掌で礼をする「合掌礼」という項目がございまして、もう菩提寺のお上人から度々お聞きになっていると思いますが、実は今お話、お読みした、三木随法上人のお書きになったものが、この布教方針の大本になっている。
そういうことをおっしゃられた三木随法上人さんのような布教師になりたいなと思って…。この方も胃癌という病気で、病名で言えば胃癌という病で、お亡くなりになったんですが、三木随法上人の真似をしようと思って、病気の方だけ先に真似をしてしまいました。
中身の方はこれから真似をするんですが。その三木上人が、こういうことを最後の年賀状でお書きになっているので、ご紹介をして、締めくくりにさせていただきます。
遠くの方は見えないかもしれませんが、こういう年賀状をいただきました。「合掌の似合う人なりたい」と書いてあります。
「合掌の似合う人になりたい」。
この合掌の姿を実践されていた三木随法上人でございますが、その方も「合掌の似合う人になりたい」、つまり手を合わせて人を拝む。物を拝む。全てを拝む。
そういう心の中に形として手を合わせる、それを実践していく、そういう人が合掌の似合う人であろうと、私は受け止めさせていただいております。
この病を一つのよき縁として私も「合掌の似合う人」、志していきたいと思っております。
皆様におかれましても、ご住職のご指導よろしきを得て、日蓮聖人のお喜びになる、お釈迦様の愛でてくださるご修行をお願い申し上げまして本日の解説の行とさしていただきます。
ご聴聞、誠に有難うございました。
【お題目】