奥野本洋常任布教師法話「いのちに合掌」H24/3/28
奥野本洋常任布教師プロフィール:山梨県南巨摩郡妙石坊住職
身延山久遠寺で朝の朝勤のメンバーになっておりまして、言い訳になりますが、そのお勤めを済まして出掛けて参りました。ちょっと中央高速の方も渋滞しておりまして、遅くなりましたことお許し下さいませ。
よろしいでしょうか。それではあの、10分という時間をいただきながら、お話させていただきます。
色々なことを話させてもらってますけども、考えたところ、やはり究極は何かということに絞りまして、これでなきゃならない、日蓮宗僧侶となった以上は大聖人の言われている「今すぐと仏となる」全てそれから早く一日も早く仏になりなさい悟りなさいと大聖人のご遺文を拝読しておりますと、大聖人は色々な法門を説いてきたけれども、究極は成仏に限ると、まあ皆さんもご承知のことと思いますけれども、成仏ということがなかなか叶わないわけでございます。
で、仏様の教えの中で常不経菩薩が但行礼拝であれだけの行をされて仏になった、というところ、簡単なようで徹底して拝みまくった。全ての人に、自分が出来ないことを、拝んで拝んで拝んで、どなたにも区別無く拝んで、ようやく仏になれたということですけれども、我々は信徒の前でお話をして拝んで「合掌は尊いですよね、合掌は尊いですよね」と言っていてもなかなかそれが実行出来ない。
なぜならば私たちは、悲しいかな好き嫌いがあって、そしてあいつ好かないからといって素直に合掌出来ないじゃないですか。
仏様の教えはそれを乗り越えて、あの人は嫌いだから合掌するのはやめましょう、あの人に対して頭を下げるのはよしましょうなんていうことをケチなことを言わないで、徹底して合掌する。
その合掌する心になれること。これが我々が残されたですね、人生においてあと何年生きられるか分からないですけれども、「合掌」「合掌」です。但行礼拝。
で、この日蓮宗もそうです。「いのちに合掌」、ほらあ、自分が尊いから合掌するわけです。自分自身を磨くために合掌するわけです。
ところが、大聖人が、心の迷い、曇りを取るのは南無妙法蓮華経と唱えてお題目を唱えると、この曇りが消えていくとは言っております。
ですけれども自分一人で合掌礼拝をして修行をしていてもなかなか磨かれていかない、と思うのです。
私は最近考えることは、合掌というのは私がどなたかに合掌する、一生懸命合掌をする、こちらの人にも合掌する、そうするといずれその人から合掌した人から合掌されるようになって私たちは磨かれていくのではないか。
自分一人が修行して、お題目は尊いからといって捉えていてもなかなか生涯生きているうちにこの心を磨きあげるのは遠いのではないかと思うのです。
夫婦がおります。奥さんに対して合掌しています。
女房は尊い、身延山で団体の人が登ってくると、女房のおかげだ、という話をします。奥さんに素直に合掌出来るか、その奥さんに対して、「おまえのおかげでありがたいよ、自分の人生はあなたのおかげで尊かったよ」というふうに素直に合掌出来るか。
やってます。
だけれども合掌しているんだけれどもやはりそこが凡夫です。つまらない顔をされたとか、返事が何かつんとしていたりすると、「なんだおまえの態度がそれならば、俺だって考えがあるぞ」と言って、はっきりとものを言ってしまって2、3時間黙ってしまう。一日、口をきかないでいるというようなことが多々あります。
だけれども、人生短い間なのに、そんなつまらないことで夫婦の間でも理解出来ないようでどうするんですか。こういうふうに思うようになってきたわけでございます。
信徒に早く仏になりましょう、早く悟りを得ましょうと言いながら、自分自身はもう心が乱れていて、家族に対しても合掌が出来ないような坊さんであるならば、もう坊さんは諦めて辞めた方がいいんじゃないか、とそのくらいに思えるのです。
私が、この成仏ということを教えてもらったのは、身延山短期大学に20歳で入った時に室住一妙先生という先生の祖書を習う中で、
「早く何を置いても仏になることが一番重要です。仏教というのは仏様の教えと書くけれども、仏様が我々がどのように生きたらいいのか、ということを教えてくれる仏の教えなんだよ、と同時には成仏、仏教というのは仏になる教えでもあるんだよ。」
「仏になるということは難しく考えれば大変ですけれども、仏となるということを考えた時に大切なものは何かということに目覚めた人、気が付いた人を仏というんだ」と。
我々はもうボケてしまっていて、世の中の欲に負けたりして、そして本当に大切なことは何か、ということを間違えて考えている人もいます。
私らもそうかもしれません。だけれども、本当に大切なものは何かと、大聖人のご遺文を拝読していくと、さあ、大聖人は、大切なものは「心の宝」と言っておりますけれども、その心の宝というのは、心の持ち方、大聖人の法門は「志の法門」と言えると書いてあります。
「志の法門」、何かと言った時に「事理供養御書」の中で成仏のことを語られております。その仏になるということは難しい。先師先哲は自分の命を投げ出してようやく仏になれたけれども、我々凡夫は先師先哲と同じように、飢えた鬼にお腹をすかした鬼に命を投げ出すというようなことはかなわない、出来ない。
ならば、仏になれないのかと言った時にいや、そうじゃないよ、凡夫には凡夫なりに仏になれる道がある、と書いてあった
それは「志の法門」だ。「観心の法門」とも言っております。「観心の法門」とは何ですか。「観心本尊抄」の「観心本尊」というのは「本当に尊いものは何か?」心を観るということでございます。
大聖人がその心を観るということは、大聖人が身延山9カ年の生活の中で山中でひもじい思いもしました。寒さに負けて腹の気の病にかかって下痢病が一年近く続いた。命、臨終というものを大聖人も覚悟されたわけですけれども。
その中にあって言われていることは、飢饉が続いた時に皆さんの家庭でも食べるものは少ない、皆さん信徒の方も食べるものが少ない中にあって、上野殿だとか、その松野殿だとか、富士の裾野の人たち、その静岡の信徒の方々が、山の中の大聖人のもとへ食べるものを届けてくれたと。
この食料、米というもの、餅というもの、その芋というものは、これは芋じゃない、米じゃない、命そのものだと言っている。日蓮聖人の命をつないでくれた食料であるから、この米は命そのものだ。
そして大聖人は礼状を書かれる中にあって、その礼状の中にこういうことが書いてある。この米が大変あっても供養してくださるとは限らない。このお米、食料を山の中の日蓮坊に届けてくれるあなたのその心が尊いんだ。その命を繋いでもらいたい。
大聖人が苦労して食べるものがない。そこへ届けたいというその食料は多い少ないじゃないだろう。あなたの志の成せる技である。その志、心の持ち方が私は尊いと思います。ありがとうございます。その志に対する「合掌」「礼拝」なんです。
ですから大聖人はお釈迦様の教えを広めるに当たって、信徒から受けたその恩、そういうものを身で感じて、それを法門として、池上宗仲の兄弟にも着るもののお礼状、ですから大聖人が「事理供養御所」の中で、尊いものは着るものをいただくことだ、寒い時に着るものをいただくことが尊い、食べるものがない時に食料をいただけることが尊い、考えたならば無いものをいただくことは尊い。今身延山中で寒い飢えと闘っている日蓮に対しては着るものと食料はありがたいんですよといって、大聖人はお礼状を書かれているわけでございます。
我々が日蓮大聖人のその教えを守っていく、日蓮聖人の生き方というのは今目覚めなきゃならない、今が幸せでなくてどうするんだ、という念仏がはびこってた時代に念仏の阿彌陀さんの信仰は、今諦めて亡くなった後、来世に救われるという教えで信徒の方が大勢でてきた。
それを見て大聖人はおかしい、死んだ後に救われるなんて教えはおかしい。今救われて死んだ後も救われる、今救われて父母をも救うことができる教えはこの法華経お題目の教えをおいて他にはないだろう。お題目の功徳は過去、現在、未来の三世に渡る功徳がある。今一生懸命私たちが信仰して合掌して磨き合って仏になれたとするならばその功徳によって大切な父母をも救います。そして今私どもが生きているうちに仏になれたとするならば、自分の大切な子や孫にその功徳を伝えることが出来るのではないかと思うわけでございます。
私が20歳で、その室住先生がですね、授業が始まると「すぐに仏になれ、すぐに仏になれ」、そして大聖人の教えを室住先生は教えてくださった。
私は一番前でこうやって聞いていたけれども、うとうとうとうとと寝だした。
そしたら、室住先生が「おい、寝るんじゃない。起きろ、顔を洗ってこい。」
「冗談言うな、こっちは授業料払ってる立場だぞ」と思ったけれども授業を聞いて、また眠ったら「本当にトイレ行って顔洗ってこい」と言われまして、私は顔をトイレで洗った覚えがあります。
そしてそれからはですね、シャープペンシルの芯を手のひらに刺したり、ボールペンでですね、寝ないようにって言って起きていてそして、室住先生のその仏になる全てそれから、その教えを受けたわけでございます。
身延山で御開帳しますと、宿坊で御開帳しますと、その「今すぐと仏となる、全てそれから。真心は尊きものとひれ伏して宇宙全てが拝む日もくる。そして宇宙全てを拝む日もくる。宇宙全ての人が宇宙全ての人に対して拝む日もくる」というそのフレーズを語りながら頑張っているわけでございます。
私は身延山布教師になる時に功刀部長さんが
「布教院、出たろ?」
「えっ、布教院って何か知らないから行ってません。」
「大丈夫、大丈夫。布教研修所は出たよね。」
「いや、それも行ってないんです。」
「大丈夫、なんとかなる」
と言われて図々しく身延山でお話をさせていただいたわけでございます。
本日はこんな皆さん大先輩の前でお話をさせていただきましてありがとうございました。
それではお題目を一唱。
【お題目】