大嶽孝夫(1911~1997)
小糸製作所社長。仏教に通ずる処世訓を掲げ逆境の人生をのりこえた。
第2次世界大戦後、日本経済はめざましい発展を遂げ、世界有数の経済大国となった。その一翼を担ったのが自動車産業である。自動車産業にはさまざまな業種があるが、照明機器のトップメーカーに小糸製作所がある。
小糸製作所は、小糸源六郎翁によって鉄道信号灯を生産販売したことに始まり、昭和7年(1932)4月に株式会社として設立される。この小糸製作所を世界的企業に発展させ、中興の祖と仰がれるのが源六郎翁の甥にあたる大嶽孝夫氏である。
アメリカ・イギリス・インド・中国等7ヵ国に合弁会社、国内には東京高輪本社を始めとして5支店、6工場、27事業所、5,000名の従業員を有する小糸製作所。その発展と共に生きた明治魂の男大嶽孝夫氏は、昨年(1997)7月2日、87歳の生涯を閉じ、家族と数多くの従業員に見守られて霊山浄土へと旅立った。
明治44年(1911)1月5日、孝夫氏は父大嶽熊太郎・母でんの5男1女の3男として、静岡県沼津市一本松に生を享ける。大嶽家は代々、沼津市原にある日蓮宗昌原寺を菩提寺としていた。県立沼津商業学校を卒業後、昭和5年(1930)4月に岩下製作所に入社するが、同12年8月に召集され中国戦線へと派遣される。ところが、戦地で左足に貫通銃創の重傷を負って帰国。同3年2月、源六郎翁の妻の姪にあたる静江と華燭の典をあげ2男1女にめぐまれる。
よほど中国に縁があるのだろうか。昭和5年(1940)3月、小糸製作所に入社して間もなく中国北京市にある小糸重機工業に業務部長として出向する。第2次大戦での敗戦後、残務整理をして同21年5月にようやく帰国。その後、静岡工場長、常務、専務、副社長を経て、同47年5月より社長、同54年6月より会長を務めることとなる。この間、殊に管理畑を歩み、財務体質の改善、オイルショック等、2度の経営危機を持ち前の闘志で乗りこえる。
昭和43年(1968)2月、源六郎翁の次男久弥(長男栄一郎は戦病死)が志半ばで逝去する。専務であった孝夫氏は葬儀の委員長を務めた。葬儀の場は、大本山池上本門寺。導師は当時の金子日威貫首、脇導師のひとりを日蓮宗教務部長村松壽顕貫首(本山蓮永寺)が務めた。松村貫首は金子貫首と親交があり、葬儀出仕を依頼されたのであった。
葬儀が終わり、清宴が催された。松村貫首の隣に座ったのは葬儀委員長を務めた孝夫氏であった。孝夫氏は貫首に声をかけた。
「どちらにお住まいですかご住職」
「ハァ、静岡の貞松の寺の住職をやっております」
「エー、それじゃ私の住まいの近くじゃありませんか」
「ホー、そうですか。ご縁ですな。ところで、戦時中はどちらにいらっしゃったのですか」
「ハイ、中国の北京にある小糸の工場におりました」
「エー、そうですか。私も中国の大連におりましてね」
「ホー、これまたご縁ですな。引き揚げの時は大変でしたよ。小糸は軍需工場でしたから。敗戦でどのような制裁を受けるか不安の日々でした」
「そうでしょう。大変な経験をされましたね」
敗戦の結果、さまざまなデマが流れ、海外在住の邦人は毎日が不安の極みであった。厳しい状況のなか、孝夫氏は小糸重機工業の残務整理を推し進めなければならなかった。従業員の多くは現地採用の中国人であり、周囲の大反対のなか、日本軍から預かった戦略物資のすべてを現金や米などに換えて従業員ひとりひとりに分配したのである。一方、家庭にあっては愛する妻や子供たちの生命を守らなければならなかった。万が一のことを考え、もし、敵軍に捕えられるようなことがあったならば自決する覚悟であった。夫妻は常に青酸カリを帯していたという。終戦の8月15日から翌21年5月の日本帰国までの9ヵ月間は、人生最大の難儀であったに違いない。この9ヵ月間の辛い経験が孝夫氏の後の人生の糧となる。
中国での2人の苦労話を互いに聴き入った。孝夫氏は清宴がお開きになるころ、
「蓮永寺さん。またこの話の続きをしたいのですが、お伺いしてよろしいでしょうかな」
「いいですとも。お住まいも近いようですし、ゆっくりと続きをやりましょう」
この日を境として、孝夫氏自身、あるいは夫人を伴って貞松蓮永寺を訪れるようになる。
昭和47年(1972)5月、孝夫氏は取締役社長に就任する。しかし、翌年10月にオイルショックが日本を襲い、未曾有の大不況となる。銀座のネオンは消され、テレビ番組は深夜放送自粛、トイレットペーパーが不足する事態が起こる。この厳しい社会状況のなかで孝夫氏は会社の楫取りをしなければならなかった。会社経営策に悶々としていたある日、ひとりで蓮永寺に松村貫首を尋ねたのであった。
「イヤー、大変な不況になってしまいました。幕末江戸開城の難局を乗りきった勝海舟にご縁のある蓮永寺さんを参拝してご利益をいただこうと思って参りました」
「そうですか。本堂の脇の墓に海舟のお母さんと妹が葬られてますよ。しかし、会社の方も大変ですな」
「中国でのことと比べたら何とも思わないのですが、この他国侵逼の難に社員が一丸となって立ち向かいたいと考えております」
「ホー、日蓮聖人は『立正安国論』という御遺文のなかで正しい生き方、正しい法によらないから侵逼難を含めた七難が起こるといわれていますし、一丸となることを異体同心といわれていますよ」
「なるほど、そうですか。いいことを聴きました。私も日蓮聖人と勝海舟にあやかって頑張りますよ」
「気持ちを切りかえて難に立ち向かい、数多くの従業員の生活を守ってあげて下さい」
「ありがとうございました。これで踏ん切りがつきそうです。ところで貫首さん、2つのお願いがあるのですが」
「私にですか、何事ですか」
「私の墓を蓮永寺さんに建てさせて下さい。そして、私の葬儀の時には必ず貫首さんから引導を貰いたいのですよ。不躾なお願いですが、どうかお願いします。腰を落ちつけて仕事をする証としたいのですよ」
不景気のなか、大会社を切りもりしようとする孝夫社長の強い決意表明と依頼に、松村貫首は快く承諾したのであった。
静岡市内にある大嶽邸には処世十訓が掲げられている。中国から引き揚げて、静岡工場長となったころ、その言葉が気に入り、常々、若い従業員にその精神を披露してきたのであった。
処世十訓のなかに、
一、向上の一路に終点なし
一、急ぐな休むな怠けるな
がある。仏教でいう常精進である。このほか、少欲知足や和顔に通じる言葉があり、十訓は大嶽家の家訓ともなっている。
中国での逆境の人生を、日本で華開かせた大嶽孝夫氏。残念ながら、松村貫首は孝夫氏より先に逝き、引導は現董の松村壽巖貫首によって渡された。そして、遺骨は約束通り、勝海舟の母(信)と妹(じゅん)の墓近くに葬られた。