芥川龍之介(1892~1927)
作家。『蜘蛛の糸』の作者は疲労のまっただなかで、一篇のお題目を認(したた)めた。
昔は本所にあった家の菩提寺を思ひ出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も建っていたものである。
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近代文学の雄・芥川龍之介が綴った『本所両国』の一節である。ここにある菩提寺とは、明治末期に江東区本所猿江から豊島区巣鴨に移った日蓮宗慈眼寺である。
「東京生まれ、東京育ち、東京に住んでいる僕」と自身が語るように、龍之介は明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船に牛乳屋を営む父新原敏三と母ふくの長男(姉が二人)として生を享ける。龍之介という名の由来は、辰年、辰月、辰日の辰刻に生まれたからだという。
母は病弱で、龍之介十一歳の時に没し、母の実家である叔父芥川道章(本所区小泉町)に預けられ、翌年には養子縁組をして芥川姓を名のることとなる。
芥川家は代々お数奇屋坊主として徳川家に奉仕する旧家で、同じく水戸徳川家とゆかりのある慈眼寺を菩提寺としていた。当主・道章は東京府の土木課に勤務しながら、十数代続いた家督を継いでいた。絵画をたしなみ、文学を好む教養を持ち合わせた人物であった。下町の本所という風土、芥川家という家風は、後の龍之介文学に大きな影響を与えたといえよう。
江東小学校、府立第三中学校(現両国高校)、そして明治四十三年九月には第一高等学校文科へと進む。一高では、菊池寛・久米正雄・山本有三・土屋文明といった、後に文壇で深くかかわる人々と同級となった。
このころ、一高は原則として二年間の寮生活をするのが習わしであった。寮生活を通じて社会通念を学び、生涯の友を得るのであった。しかし、龍之介はなじめなかった。入浴は隅に、万年床という不潔な生活。ストームで馬鹿騒ぎをし、プライバシーを守れぬ状況に閉口したのであった。神経質で繊細な龍之介の性格を思い浮かべることができよう。
一高文科を二番の成績で卒業し、東京帝国大学英文科に入学。いよいよ文学作品を世に出すときがくる。友人・久米からの強い要請もあり、京大へ行った菊池らとともに同人雑誌・第三次『新思潮』を刊行し、龍之介は翻訳作品を載せたのであった。教師を目指したこともある龍之介であったが、これを契機に大正四年十一月、『羅生門』を「帝国文学」に発表し、よく十二月には文壇の巨匠・夏目漱石との邂逅が生まれる。
龍之介はユニークな作品『鼻』や『芋粥』を世に送り、漱石はそれらの作品を絶賛したのであった。一躍、新進気鋭の作家として脚光を浴びるようになる。
龍之介は二十六歳の時、ある女性と結婚する。中学校の友人の姪塚本文子であった。祝言は近親者のみ集まり、質素に大正七年二月二日にあげられた。龍之介と文子との間には、男児三人、長男比呂志・次男多加志・三男也寸志に恵まれた。
龍之介の作品のなかには、宗教、仏教やキリスト教に触れるものがある。わけても、読者の皆さんも小学生や中学生の時、読んだであろう『蜘蛛の糸』は、仏教の香りがする代表作といえよう。
この作品が発表されたのは、大正七年七月であった。龍之介は幾篇かの童話を作っている。その処女作が仏教童話ともいうべき『蜘蛛の糸』であった。登場人物は、お釈迦さまと地獄の住人(#1)陀多(カンダタ)。極悪人の(#1)陀多は、一度だけ善いことをした。一匹の蜘蛛を助けたのであった。このことを知っていたお釈迦さまは、(#1)陀多を地獄から助け出そうとして、一本の蜘蛛の糸を下ろした。(#1)陀多はこれ幸と糸をよじ登り始めたが、下から地獄の住人たちが次から次へと登ってくる。これを見た(#1)陀多は、「こら! この糸は俺のものだ!」と下に向かって叫ぶと、プツリと糸は(#1)陀多の上で切れてしまう。
この作品は、仏教的見地に立って、人間のエゴイズムの醜さを表現し、それは自己も他人をも破滅させてしまうと訴えているのである。
龍之介は大正十年ごろから病に罹り、疲労で寝られぬ日々が続く。十三年の夏には友人に遺言めいた書簡を送り。ついに、昭和二年七月二十四日未明、自らの生命を絶ち、三十五歳の若さで不帰の客となってしまう。枕元には、遺書と多くの遺稿、そして開かれたままの聖書が置かれてあったという。
龍之介が心身疲労の真っただ中にあった大正十四年六月十四日、一篇のお題目を認めている。お題目・法華経に救いを求めてのことであろうか。残念ながら彼の真意を知ることはできない。
葬儀は、七月二十七日午後三時から東京谷中斎場で七百名を越える会葬者が集まり行われた。導師は菩提寺の慈眼寺第二十四世篠原智光住職が務め、泉鏡花・里見淳・菊池寛が弔辞を読んだ。位牌には「俗名 芥川龍之介之霊位」と書かれてあった。
俗名のままでの葬儀には、二つの理由があった。妻文子はクリスチャンで仏式葬儀にあまり好意的ではなかった。もう一つは、菊池寛が勝手に戒名をつけてしまい、菩提寺とのトラブルとなったことにあった。
五七日忌の法要が身内の者と僅かな友人を集めて慈眼寺で厳修された。法要後、久米正雄が口を開いた。
「住職! 俗名のままというのは、どうも合点がいきませんな。なんとかならんもんですか」
「ウーン 奥さんはどう考えておられる」
「ハァ 今は遺された子供三人をどう育てるかで頭がいっぱいです」
「そりゃ無理もないですな。しかしな、あなたのご主人は亡くなる前にお題目を書いておられる。多分、救いを求めてのことであろう」
「エッ そうだったのですか」
「このままじゃ、あの世へ逝っても心身ともに疲れたままだ。お釈迦さまのもとで安らかに過ごすためにも戒名はあったほうがよいですぞ」
「そうですか」
「実はな、もうすでに用意してあるのだ。『懿文院龍介日崇居士』とな。懿文とは、立派な文学を世に送ったという意だよ」
「そうだったのですか。ありがとうございます」
この後、智光住職は精神的支柱を失った芥川家の人々を励ました。妻文子は子供たちを連れて寺に詣で、住職と話を交わし墓参してお題目を唱えたという。次男多加志はビルマで戦死したが、長男比呂志は文学座の看板俳優として活躍し、三男也寸志は音楽家として大成した。文子は昭和四十三年九月に他界したが、兄弟二人は父母への供養を怠らず続け、也寸志は法華経要品とテープを購入して練習し、祈りを捧げたという。
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妻や子供たちのお題目によって霊山浄土へと逝った龍之介は、お釈迦さまのもとで『蜘蛛の糸』の続編、法華経による(#1)陀多の救いを書いているに違いない。