坂家の人々(1889~ )
創業からの法華信仰はその伝統の味とともに連綿と受け継がれる
幼いころ、鉄道で旅するときの楽しみはなんといっても駅弁、そして、その地の名産品を食することであった。
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日本全国には、その地で育まれた美味しい伝統菓子がある。北海道の乳製品・仙台の最中・京や金沢の和菓子・大阪のおこし・長崎のカステラ、そして、名古屋といえばエビフリアの口矢社・エビセンベイ。
このエビセンベイの製造・開発に命運を賭けた法華篤信の一族がある。歯ごたえあり、重厚な味わいのエビセン"ゆかり"を世に出した坂家の人々である。
名古屋から名鉄電車で知多半島方面へ三十分ほど行った所に、現在は東海市の尾張横須賀という駅がある。横須賀は伊勢湾に面した漁港のある町で、古より魚介類に恵まれ、ことにエビの収穫地として栄えていた。
尾張徳川家第二代藩主・徳川光友公は、この地の御殿場にあった別荘へ来るごとに、好物であるエビをハンペン状にしたものを所望したという。横須賀の漁師たちは、藩主の居城がある名古屋でも食することができるようにと、長もちのする加工法を考案した。エビをすり身にし、デンプンと小麦粉をまぜて炭火焼きにする。これが現在私たちが食べるエビセンのルーツだという。
また、横須賀の地は織物の産地としても知られていた。坂角総本舗の創業者・坂角次郎の家は代々織屋をなりわいとしていた。明治に入り、豊田左吉翁によって発明された自動紡織機が横須賀にも入るようになるが、この新しい機械を導入するか否かが明暗を分ける事態を招く。財力に乏しい坂家は機械を購入することができず、織屋廃業を余儀なくされてしまう。
「こりゃあ、大変な時代なってしまったわな。どんな時代であっても、食べものの商売なら間違いはないかもしれんわ」
と意を決し、同じ知多半島の南に位置する内海豊浜という町でエビセンベイ造りの修業をする。二年半にわたる奉公修業の末、その技術を持ち帰ってセンベイ屋を開く。
「そうだ。屋号は私の姓と名のひとつをとって『坂角』としよう」
明治二十二年(一八八九)のことであった。
坂家は代々近在にある禅寺を菩提寺としていたが、角次郎氏は禅の教えに納得がいかなかった。この明治という激しい時代に、ただ坐禅をしているだけで何が救われるのか。貧困にあえぎ、時代に翻弄される人々が救われる宗教は何か。現実に眼を向ける宗教は法華経、日蓮宗しかないという結論に達し、改宗した。そして、菩提寺を横須賀三ノ割にある大教院(後に菩提寺は道心寺となる)とした。
創業者角次郎氏が四十二歳の若さで亡くなると、第二代社長に鐐三氏が就任する。妻かよと共に家業を継ぐこととなるが、二人は一時、経営に不安を感じたのが切っかけで、天理教の信仰に入ってしまう。夫妻を再び法華信仰に導いたのは、かよの叔父夫妻・蟹江恒氏とはつえであった。蟹江夫妻は国柱会と仏教感化救済会(設立者杉山辰子法尼)の影響を受け、名古屋市雁道で道場を開き、五~六十人の信仰者が常時集まっていた。このなかに、塚本たし法尼(元民社党委員長塚本三郎氏の師)や蟹江一肇師(名古屋道心寺前住職)がいた。
坂角に転機が訪れる。昭和二十五年、全国菓子博覧会に出品したエビセンが第一位を受賞し、その名は全国の菓子屋の知るところとなる。昭和二十八年には百貨店に初めて出店する。名古屋の中堅百貨店名鉄への出店の長を命じられたのは、鐐三氏の長子誠氏である。
誠氏は、着任早々から精力的にライバル会社の出店状況を丹念に観て回り、アイデアを練り、次々に新製品を世に送った。質の高い坂角のエビセンは口コミで全国に拡がり、全国の名百貨店への進出を果たす。
しかし、誠氏は『これが坂角だ!』というエビセンが欲しかった。昭和三十八年、第三代社長に就いた誠氏には思案の日々が続いていた。昭和四十年、秋のある日、自宅に帰ると、会長に退いた父が酒の肴に自分用の生エビセンを美味しそうに食べていた。知多半島では、秋になると質の良いアカシヤエビが大量に水あげされる。それをすりつぶして、自分用の生エビセンを造っていたのだった。父から分けてもらうと、実に味わいのあるエビセンであった。誠氏は内心『これはいける。これでいこう』と決心したのであった。
問題があった。
それは一日一人で四百枚ぐらいしか造ることのできない生エビセンをいかにして量産するかということであった。試行錯誤し、新たな機械を導入して量産体制を整え、世に送ることとなる。エビセンの名は"ゆかり"とされた。「質の良いエビセン、喜んで食べていただくご縁を大切にしよう」との想いから、"ご縁"を"ゆかり"として発売したのであった。昭和四十一年のことである。
発売当初、"ゆかり"の売れ行きは捗捗しくなかった。一枚二十円という価格設定が顧客を遠ざけた。「質の良いものは必ず売れる、真心のこもったものは必ず売れる」との信念で、誠氏は、関東・関西、そして名古屋の百貨店を巡った。そのかいあって、発売してから三年で"ゆかり"は全国に受け入れられ、売り上げは右肩上がりで延びていった。
誠氏が社長を引き継いだときは、三十余人の従業員であった。ところが、現在では、全国に百五店舗(百貨店出店を含む)、従業員七百人、百種を超える製品、年商百億円、平成元年には合資会社から株式会社坂角総本舗と改組し、中京地区食品会社の優良老舗として確固たる地位を築いている。
坂家の人々は、法華信仰への篤信の証としてさまざまな形で布施行をしている。創業者の角次郎氏が常に口にした『信仰と共に商売をせにゃいかん』との精神を坂家は代々引き継いできたのである。
第二代鐐三社長夫妻のときから、自宅を月一回開かれる法座に解放している。道心寺住職によって、読経・唱題・法話・法座が行われるが、その場として提供される。そして、三~四十人集まった人たちには、必ず坂角のエビセンが振る舞われる。
この布施行は、道心寺で催される年四回の大祭でも行われる。大祭の法要(昼と夜の二度厳修される)には約千人の老若男女でにぎわうが、参詣者の人すべてに坂角のエビセンが渡されるのだという。
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現社長誠氏は、毎朝、三十分の仏壇前でのお勤めを日課としている。法華信仰を育み、会社を今日にいたらしめたご先祖に報恩、従業員の作業安全を祈ってお経をあげ、お題目修行をし、結びに、
「お客さまに喜んでもらえるエビセン造りができるよう、良きご縁をいただける商いができるよう」
と願うのだという。創業者に始まった法華信仰は、確かに現社長にまで連綿と受け継がれている。