ホーム>法話>法華経に支えられた人々>小林一郎(1876~1944)

法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

小林一郎(1876~1944)

『法華経大講座』刊行に身命を賭し、多くの人々を教え導いた文学研究者。

世界で、今までに最も愛読された書物は聖書。それでは、日本では?『源氏物語』、夏目漱石の『坊ちゃん』。いやいや、実は法華経なのだ。
写経といえば、般若心経という相場になっているが、仏教伝来から今日に至るまで最も数多く写経された経典は法華経であり、人々に親しまれたのも法華経である。

この法華経の解説に半生を賭けた人がいる。その解説書は当時ベストセラーとなり、発刊元の平凡社は倒産の危機を回避したという。

明治9年(1876)10月20日、横浜在住の儒家の長男として小林一郎先生は生を享ける。幼い頃、神童の誉れ高くとも、大人になればただの人というのが通例であるが、小林先生はそうではなかった。体力には恵まれなかったが、無類の勉強好きで幼い頃から漢文・英語を学び、文学作品を読み漁る日々であった。

19歳のとき、私立開成中学へ入学し、1年生の試験はすべて満点の首席で通して、翌年一足飛びに5年生に編入される。中学を2年間で卒業し、一高へ。一高でも成績は常に首席、さらに東京帝大文学部に進み西欧哲学を専攻する。専門書はもちろんのこと、ゲーテ・シェークスピア・トルストイの作品を原書で読み、日本文学では芭蕉と近松に魅せられる。明治35年(1902)3月、文学部創設以来最優秀の成績で卒業し、恩賜銀時計が授与された。卒業後、ただちに請われて東京帝大で教鞭をとることとなる。

小林先生が日蓮宗と縁を結んだのは、日蓮宗大学(現立正大学)への奉職にある。それは明治37年のことであったが、そのきっかけをつくったのは慶應義塾で福沢諭吉翁の膝下に侍した柴田一能師であった。両者ともに八王子のある小学校の同窓会の講演者として招かれ、懇談の席で柴田師は奉職を懇請したのであった。柴田師の熱心な誘いに意を決した小林先生、大崎谷山ヶ丘へと向かった。学長室に入ると、合掌して迎える老師がいた。

「余は初めて小林大僧正を見たとき、高僧というのはこういう人かと思った」

日蓮宗第10・11代管長を務めた小林日董師であった。その温厚な風貌と溢るる熱情に圧倒され、奉職を決意する。

「先生、就職祝いにこの本を受けとって下さい。ポケット版の法華経です」

「宗教書は今までドイツ語の聖書しか読んでいませんが、法華経には前々から興味がありました」

と返礼し、早々に法華経を読む日々が始まる。ときには大きく頷いたり、ニコニコしながら「なるほど」と独り言をいうのがしばしばであったという。常にポケット版の法華経を持ち歩き、その表紙裏には日董師に対し法華経との縁をいただいたことへの感謝の念と、仏教に生涯を捧げる決意が記されていた。

日蓮宗大学で教壇に立つうちに法華経と日蓮聖人への信仰が加速されていく。哲学・心理学・倫理学等の著述とともに仏教に関わる著書が次第に増えていくようになる。さらに講演依頼も多くなり、四六時中、食事と睡眠を除く時間は読むか、書くか、話すかに費やされたという。

昭和10年(1935)の夏、『法華経大講座』の執筆が開始される。毎月1巻の刊行というハイペース。小林先生の日記には、そのときの様子が次のように綴られている。

「早朝速記2時間」

「暁4時より起きて法華経講義準備」

「法華経講義、夜半をすぎ3時半に至る」

平凡社から社運を賭けて優秀な速記者2名が小林宅に派遣されて講義を記録し、翌日までに文章にして講義記録の後に先生が校正加筆する。この作業が毎日繰り返された。講演旅行の車中(遠方への旅であっても常に二等車)にあっても校正加筆は行われた。

浅草の梅園であんみつを食べるのを楽しみとしたほどの甘党であったが、貧血症に悩まされたため主治医に相談したところ葡萄酒を勧められ、その効用が同じであろうということで日本酒となった。けっして酒の肴にうるさくなく、朝起きてグラスで1杯、昼食の時に1杯、夕食の時に1杯、そして執筆の時に1杯、酒は先生の体調維持と気分転換、頭の働きをよくする作用を果たしたのだ。

昭和12年(1937)の暮れ、昭和の名著『法華経大講座』全12巻は刊行される。発刊されて間もなくベストセラーとなるが、早急な執筆による刊行に小林先生は満足することなく、さらに加筆して改訂版を出すことに意欲をかきたてる。

最晩年には食道ガンと闘う日々のなか、唯一の嗜好である酒を医師から止められての改訂版への取り組みであった。

「熱なお去らず、悪寒また加わる。法華経講義続稿」

「防空講習の騒しき中にて法華経講義続稿大いにはかどる。根気著るしく、ラジウム治療の効果みるべし、又夜半に至る」

「昨日より熱下らず終日黄臥、夜に入り元気よくなり講義続稿」

昭和18年(1942)暮から翌年1月の日記の1部である。やせ細る身体に鞭打ち最期の力をふり絞って続稿を世に出そうとした姿が眼に浮かぶ。酒を止められた先生には執筆がガンの苦痛を和らげる唯一の薬であったかもしれない。続稿の執筆途中(寿量品)、昭和19年3月18日、享年六十九をもって霊山(りょうぜん)往詣される。逝去前、榮子夫人に、導師は久保田正文師に、墓は渋谷区千駄ヶ谷の仙寿院の域に、一族は時宗から日蓮宗に改めるよう遺命する。小林先生の半生は、法華経に支えられたというよりも、法華経を支えたといえるかもしれない。

小林先生の著述を読み、講演を聴き、人柄に触れて法華信仰に入ったり、生き方に影響を与えられたりした人は枚挙にいとまがない。その主な人には、新村出・諸橋轍次・山田三良・幸田露伴・山田耕筰・五島昇・土光敏夫・加持時次郎等がいる。