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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

綱脇龍妙(1876~1970)

日蓮宗僧侶。"絶対平等"が座右の銘。ハンセン病患者救済に尽くした但行礼拝の行者。

明治39年(1906) の夏、茗谷(めいこく)学園という寄宿舎に住み、一高・哲学館(現東洋大学)へ通う3人の青年が初めて身延山を参詣した。当時、東京から身延へ行くには、新宿から中央線にゆられて甲府に着き、そこから鉄道馬車に乗って鰍沢(かじかざわ)へ、さらに川下りの船で身延までとい道中であった。身延登詣はまだ大変な時代であった。

3人が鰍沢に着くまではよかったが、富士川の増水で足止めを余儀なくされ1泊する。翌日、ようやくのこと身延へたどり着き、総門から一気に287段の菩提梯(ぼだいてい)をかけ上がった。眼前には日蓮聖人の神(たましい)が棲(す)む、祖師堂がすっくと立っていた。青年たちの足は感動でワナワナ震え、涙腺からは熱いものが自然に流れ出た。この青年たちのうち一人が、後に弱者救済・ハンセン病患者に生涯を捧げた綱脇龍妙(つなわき・りゅうみょう)上人である。

龍妙上人は、明治9年(1876)1月24日、九州玄界灘の荒海に面した玄海町の専業農家の次男として生を享ける。地元の小学校を終え、海外渡航を志すが肺結核を患って断念、医師からは余命3年と宣告された。両親の嘆きはいかばかりであったろうか。母は一生懸命に看病し、優れた漢方医に治療を委ね、菩提寺(福岡市法性寺)で快方を祈った。

発病して3ヵ月、龍妙上人は奇跡的に回復、菩提寺の貫名日良住職は出家することを勧めた。母は“1度死んだかもしれない我が子、その余命を仏さまに捧げよう”と意を決し、仏門に入ることとなる。

1年半後、師・貫名上人の転任に従って福井県大道の妙泰寺に移り、京都松ヶ崎檀林で本格的な学業修得を目指すこととなる。龍妙上人の才は秀でていた。武生市に住す篤信家・青山市之助氏は彼の資質を見抜いて学資援助を願い出て、井上円了博士が開いた哲学館へ進み、そこで哲学を学ぶこととなる。

ちょうどそのころ、堀之内妙法寺山主・武見日恕上(にちじょ)人によって、地方から都内に学ぶ宗門(しゅうもん)子弟のための寄宿舎・茗谷学園が小石川茗荷谷に開かれた。この学舎からは、総理大臣となった石橋湛山(早大)、哲学者で立正大学学長となった守屋貫教先生(東京帝大)を輩出している。龍妙上人は、この学舎で寝食を共にする友人2人を誘って身延へと詣でたのであった。

身延へ着いてから3日目に友人2人は郷里へと帰省する。5日目の早朝、残った龍妙上人が御草庵・御廟所を参拝し山門近くへと来たとき、路傍から河原にかけて幾つかの粗末な小屋があるのに目が入った。すると、ひとつの小屋から12、3歳ほどの少年が人なつかしげに現れた。顔を見ると紅くはれあがり、目尻が少し下がっていた。

「君、どうしてここにいるんだい?」

「はい、ボク、ハンセン病という病気になってしまったんです。身延へ行くとお祖師さまっていう人が治してくれるっていうので山形から来ました」

「ぼく、1人で来たのかい?」 「そうです。お父は2年前に死んで、お母は病気、姉が身を売って旅費をくれました」

「ほう、大変だなあ。ボク、がんばれよ」

龍妙上人の目からは止めどなく涙があふれ、衣をぬらしてしまった。龍妙上人は隣りの小屋、次の小屋と片っ端から訪ね、事情を聴いたのであった。

“このまま放置してしまえば、彼ら彼女らを看護する人はなく、身体は腐るがままに死んでしまう。されど、私に何ができるというのだ。いったい、どうすればいいのか” 自問自答するうちにその日は暮れてしまった。

翌朝、団扇太鼓(うちわだいこ)を1本持ち、御廟所に別れを告げる読経をし、お題目を唱え始めると、内から「ナントカシテヤレ! ナントカシテヤレ!」という声がするではないか。しかし一方で、東京に帰り学業を続けて目的を達成しなければならないという念が頭をよぎる。

「どうすればいいのだ。そうだ、私は坊主だ。他人を救うのが私にできる仕事だ。彼らを1人でも救おう。待っていろよ」と意を決して上京する。

東京に着いてからは学業もそこそこに内務省を幾度も訪ね、日本橋木挽町の豊永日良身延山法主(ほっす)に直談判して協力を得、師匠や青山氏の援助によって、身延山内身延川沿いの敷地に仮病室1棟が建てられた。明治39年10月12日のことであった。

川原から13名の患者を収容し、病院の名を『深敬園』(じんきょうえん)とした。その名を冠したのには訳があった。龍妙上人は法華経に説かれる“絶対平等”“人間礼拝(らいはい)”を座右の銘としていた。だれにでも仏心がある。その仏をすべての人に見て、合掌礼拝した常不軽菩薩の言葉「我深敬汝等(我深く汝等を敬う)」という教えに深く感銘を受けていたのである。

明治期においてハンセン病は不治の病とされ、感染の恐れから患者は隔離療法を強要され、医者も治療を渋る状況であった。時には龍妙上人が自らの手で患者の膿んだ手足を切断したり、切開することもあった。

事業は豊永法主と堀之内妙法寺武見山主の物心両面の援助によって開始されたが、増設・維持管理のためには莫大な経費が必要であった。ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサの「私はお金が欲しい。貧しい人を救うために」の言葉が思い浮かぶ。

“乞食坊主! タカリ坊主!”の揶揄や罵詈雑言は常であった。また一方では、宿泊を無料で提供したり、精神的支柱になってくれる人も現れた。日蓮宗第6代管長・杉田日布上人、医師加持時次郎氏、守屋貫教先生であった。ことに、守屋先生は立正大学講師を退職し、1年にわたり深敬園の留守番役を果たされたのであった。

深敬園は大正9年に財団法人の認可を受け、昭和5年11月10日には福岡県壱岐村に九州分院が開設され、救済事業は着実に拡大していった。さらに、明治42年10月、多摩全生園(ぜんしょうえん)に唱行会を結成し、昭和28年には草津楽泉園に仏堂を建て、ハンセン病患者が法華信仰をはぐくむ道場を開いたのであった。

ハンセン病治療が確立されず、無知による人々からの偏見や差別のなかで、救済に生涯を捧げた龍妙上人、そして妻や子の献身的行為は大いに評価できよう。

エイズ感染が大きな社会問題となっている今日、改めて龍妙上人のとった行動と姿勢が問い直されなければならない。