新居日薩(1830~1888)
日蓮宗僧侶。仏教弾圧の激しかった明治に"日蓮宗"の整備に尽くした。
毎年、10月12日の日蓮聖人ご入滅のお逮夜になると、池上本門寺は50基を超える万灯の行列、数十万人の老若男女の参詣で大いに賑わう。このお会式行事は江戸時代から始まり、元禄年間のころから江戸を代表する行事として数えられている。ところが、この万灯行列・唱題群行が禁令となった時期がある。明治7年(1874)のことであった。
明治維新政府は新時代にふさわしい強国を築くため、宗教政策の大転換を図った。江戸時代、幕府によって保護された仏教に替えて、神道に重きを置く行政に着手したのであった。ここに神仏分離令に始まる仏教弾圧の歴史が開始される。わけても標的となったのが日蓮宗と浄土宗であった。真宗は維新政府中枢部に通じる人脈と資金があり反発する力があったが、日蓮宗はそうはいかなかった。
大曼荼羅に天照太神等の神号を書き加えることを禁じられたり、団扇太鼓を叩いて唱題群行を停止されることが三度あった。このような厳しい状況の中、日蓮宗の舵取りを見事に遂行した僧侶がいる。日蓮宗一致派初代管長となった新居日薩和上である。
和上は天保元年(1830)12月26日、群馬県桐生で代々染物織屋を営んでいた新居宗衛門の6男として生を享け、名を林之助といった。祖父・善左衛門は自宅の土地に鬼子母神堂(のちの寂光院)を設けるほどの法華信仰を持ち、新居家には秩父浄蓮寺住職大車院日軌上人が布教に出入りしていた。この関わりから和上は、日軌に就いて9歳の時得度する。
11歳から19歳まで、修行と学問の僧侶養成機関・飯高檀林(千葉県飯高)に学んだのち、金沢立像寺に開かれた私塾「充洽園」に、師・日軌の推薦により身を投じることとなる。
時を同じくして幕末に、緒方洪庵が適塾、吉田松陰が松下村塾、福沢諭吉が慶應義塾等を開き、日本を担った人材を輩出したように、日蓮宗版私塾充洽園が優陀那院日輝和上という“行学の人”によって設けられ、和上を始め、吉川日鑑・三村日修・津川日済といった明治の日蓮宗を支えた人々が陸続と生まれたのであった。儒学・国学からの仏教批判、僧侶の資質低下・頽廃という状況にあって僧侶の再教育を目指して起こったのが充洽園なのである。
25歳までの6年間、和上は日輝和上の膝下に侍して薫陶を受け、門弟として生涯その生き方に畏敬の念を抱くようになる。充洽園を去ったのち、江戸駒込蓮久寺住職となり、日輝和上の影響を受け僧俗を問わずあらゆる階層の人々が集う仏教学習の場をつくったのであった。
和上が世に知られるようになるのは明治に入ってからである。明治6年2月24日、キリスト教禁制が解かれるが、それに先立って仏教各宗はキリスト教再開への脅威を感じ、相(あい)和して対策を講じなければならなかった。その方策として諸宗同徳会盟という組織が京都に設けられ、この運動は東京にも波及し、日蓮宗の代表者3人の内のひとりとして和上が選ばれた。この会盟各宗の代表と大いに交わり、頭角をあらわすようになる。そして、宗門への危機感を抱くようになるのである。
「このままの状況では、わが宗は真宗やキリスト教に圧倒されてしまう」
日蓮宗の寺院は早急に結束して宗内組織と布教体制の整備をしなければならないと訴えるようになる。
明治7年3月、明治政府は身延山久遠寺住職に和上を任命、4月1日には日蓮宗一致派初代管長となる。時に和上45歳のことであった。就任早々、長老である中山法華経寺住職河田日因上人を訪ねた。
「他宗は着々と組織を改めておりますが、わが宗は身延・池上・中山、そして京都の本山に分かれていて整備されておりません」
「うーん、私もその事を案じておりますが、なかなか難しいことです」
「私はその手始めとして宗名を決め、身延を中心とした教団にしたいと思っておりますが」
「宗名? どういうことですか?」
「政府は、宗名を決めろ、といっております。決しなければ存亡の危機に瀕することになります」
「どんな名称ですか?」
「はい、日蓮宗という名ではいかがでしょうか」
「うーむ、それは宗祖の名をとるということですか。宗祖は一宗一派にこだわらなかった方ですが、それはどう解釈なされるのですか?」
「『四条金吾女房御書』にありますように、宗祖は自ら法華経からその名をとられました。 『日蓮』という名は、法華経を象徴する語であり、“法華経宗”と同じと私は考えております」
「そうですか。では、しっかりと頼みます」
明治8年12月14日、和上は政府に宗名を「日蓮宗」とする伺書を提出した。宗名公称獲得には、日蓮宗の命運が託されていた。生き残るか否かの交渉が始まるのである。
和上は池上、あるいは高輪の日蓮宗大教院(のちの立正大学)から歩いて教部省という宗教行政機関へと日参した。和上を精神的に支援するため池上近郊の講中会員は集い、和上自筆のお題目の旗を先頭にともに歩き、送迎したのであった。
これには次のような逸話がある。
ある日、ひとりの会員が指をさし、次のように言った。
「和上は私たち日蓮宗を代表し、生命を賭して、あの部屋で交渉しておられる」
すると、別の会員から、
「そうだ、捕らえられてもいいから私たちは和上が交渉中、団扇太鼓を叩いて応援しよう」
という声が上がったのである。翌日から禁令を破っての唱題群行が開始され、和上が交渉中にも太鼓を叩き、お題目を唱え続けたのであった。
明治9年2月27日、ついに宗名の公許が成り、和上は宗門の整備に取り組み、宗門内外の活動にも精力的にかかわっていく。外にあっては、日本橋茅場町に設けられた孤児収容施設福田会の会長に就任。千葉刑務所では囚人の教誨に当たっている。内にあっては、海外布教の礎を築き、講中の統廃合を進め、教育機関の充実に努め、日蓮宗法要式を定め、その間を縫って全国を巡回布教したのであった。
まさに和上は、講中のエネルギーを見事に活かして明治という激動期の日蓮宗を背負い、宗門の未来を切り開いた僧侶といえよう。しかし、その志半ば、明治21年8月29日、59歳で化(け)を他界に遷される。