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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

鴻池家の人々(16**~ )

鴻池グループ。愛する土地を守ろうと土木建築業をはじめた創業の意志を堅く守る。

大阪は商人(あきんど)の街、天下の台所とも称される。古より商都大阪は、河川(水)を利用して商業が発達し、数多くの廻船問屋を育んできた。

江戸時代、大阪中津川の河口に大型の商船が発着する場があった。伝法である。この地から樽廻船や菱垣廻船が、武士の街江戸へと往来し大いに賑わった。酒・昆布・醤油・みりん・海苔・線香等の日用品が、江戸へ江戸へと向かい、豪商といわれる商人が出現した。その豪商のなかにあって、代々法華信仰を粛々と育んだ名家がある。のちに、建設業や運輸業を興した鴻池家である。

鴻池家が大阪伝法に居を構えたのは、17世紀ごろといわれ、六軒屋という屋号で大阪の人々に親しまれてきた。江戸時代から明治に入り、社会変革期を見とった創業者鴻池忠治郎氏は、大阪の湾岸部にたびたび水害が発生することに着目した。

「自然災害からみんなの生命と財産を守る仕事をせなあかん!」

忠治郎氏は近在の農家の人々に呼びかけ、労力を集め、港湾整備のため材料を作る製材業や、土木建築業を始めたのであった。

信望のあった忠治郎氏の呼びかけに地域の人々は喜んで協力したのである。

淀川を始めとする河川の整備・改良工事によって、鴻池の事業は近代工法を取り入れながら次第に、その規模を拡大していった。殊に、明治30年代から着工された新淀川開削工事を契機として海運業から建設業への礎を築いていくことになる。

創業者忠治郎氏の意志を忠三郎氏(初代社長)が継ぎ、藤一氏(第三代社長)が発展させ、そして、一季氏(第四代社長)に至っている。現在、大阪本社のほか、東京・名古屋・仙台等に14ヵ所の本・支店を数え、鴻池運輸等の系列グループを含めると、1万人を越える従業員を有した大企業となっている。

300 余年の伝統を誇る鴻池家は代々、同じく伝法にある日蓮宗正蓮寺(奥邨正寛住職)を菩提寺としてきた。鴻池組の登記は此花区伝法4丁目となっており、北伝法に因み“北”の字を丸く囲んで、組の社章としている。これも、鴻池組発祥の地にこだわっているからであろう。この地に、今でも明治創業時の建物が残され、正蓮寺の前には素晴らしい社員寮が建てられている。頑なまでの伝法へのこだわりは、ご先祖から受け継いだ伝統を大切にしようとする家風からきたものであろう。

正蓮寺では、毎年8月下旬、大阪の人々から「寺の天神祭」とも称される川施餓鬼が行われている。海中から出現した日蓮聖人像をお祀りする、この伝統行事は享保年間から続けられている。

鴻池家は代々、この行事の裏方の総責任者としての役割を果たしてきた。40~50人乗りの船(平成11年は大型船1隻を加えた)を10隻ほど確保し、船が発着する臨時の桟橋を作り、港湾当局の許可も得なければならない。この作業・交渉を一手に引き受けるのが鴻池家の人々である。初代社長忠三郎氏の妻トヨさんは、参詣者の弁当約1000個を作る台所の総監督をこころよく引き受け、行事が終わるまで台所に鎮坐するのが常であったという。

第三代社長藤一氏は、忠三郎氏の次男として明治45年1月に生を享け、戦局が悪化した昭和19年12月、32歳の若さで社長に就任し、平成6年3月9日、享年82で霊山往詣するまで、社長・会長として半世紀にわたり、“不言実行”“寡言”を尊ぶ人として鴻池組を統率し発展させた。この間、大阪工業会会長・全国建設業協会会長を歴任し、関西経済界の重鎮としても活躍した。もちろん、正蓮寺の護持にも大きな精力を傾けたのであった。

第2次世界大戦の末期、大阪市もアメリカ軍の爆撃を受け、市街は焦土と化し、水の都の橋や土手も破壊された。伝法も例外ではなかった。

正蓮寺第25世奥邨学進住職は応召され、朝鮮半島木浦、済州島で兵役を務め、終戦から1年後の昭和21年11月2日、再び生きて伝法へとたどり着いた。しかし、堤防の決壊で満潮には新淀川の河口に近い寺の本堂や庫裡は浸水し、浮殿状態であった。

この光景を目の当たりにした学進住職は、ただただ自失茫然。

「何ともまあ、大阪も、伝法も、寺も、大変なことになってしまった。それでも、女房や子供が生きとって、ほんとうに良かった。これから頑張ればいいんだ」

とみずからをはげますしかなかった。さっそく、4丁目の鴻池家に向かった。フィリピン戦線へと兵役に就き、ようやく帰国した藤一社長が出迎えた。

「いや、御苦労さまでした。見ての通り、伝法も大変なことになってしまいました」

「はあ、寺も水浸しで、今にも倒れそうです」

「お上人! 私も心配していたんです。さっそく、明日から工事に入らせていただきます。近くの土手も応急処置をしなければいけません」

藤一社長は何よりも先に菩提寺の復興を優先に着手したのであった。

正蓮寺の妙見堂前には、鴻池本家の墓が建つ。墓地には分家7軒の墓が建ち並んで、実に壮観である。藤一社長夫妻は、現住職・正寛師の弟子正道師が出家する折には得度親となった。敏子夫人は毎朝のお勤めに、方便品・お自我偈・神力偈・観音偈を読み、唱題することを日課としている。

それは現社長一季氏夫人の民子さんにも受け継がれている。また、藤一氏の弟十郎氏(鴻池運輸会長)もお勤めを欠かさないという。

一季氏は神戸大学・カリフォルニア大学バークレー校を経て工学博士号を取得した俊才。英語にも堪能で海外建設協会の会長として活躍し、アジア・アフリカの開発途上国の技術援助・指導にも尽力している。タンザニア共和国の名誉領事を務めるほか、大阪本社内にタイ王国領事館があるのもその証であろう。見返りを求めない、法華経の菩薩行にも通じる。8月15日のお盆には、お仏壇の前に端坐し、ご先祖への供養のため、自ら木鉦をもって家族と共に唱題・読経するという。鴻池家には、今も法華信仰を伝え、育み、菩提寺を護持するという家風が脈々と生き続けている。