長谷川等伯(1539~1610)
"長谷川派"を興す。大望を胸に法華芸術の大輪を咲かせた天才絵師。
今を去る五百年の昔、京の都は日蓮聖人(にちれんしょうにん)の法孫(ほうそん)・日像上人(にちぞうしょうにん)(1269~1342)によって開かれた妙顕寺(みょうけんじ)や本圀寺(ほんこくじ)を中心に、21ヵ寺の本山が甍(いらか)を競い、町衆(まちしゅう)といわれる法華信仰(ほっけしんこう)の人々であふれていた。その数は人口の7割から8割を占めていたといわれる。
しかし、比叡山(ひえいざん)・根来寺(ねごろじ)等、反日蓮宗の寺々による襲撃、すなわち天文法難(てんもんほうなん)(1536年)によって全本山は灰燼(かいじん)に帰してしまう。
この結果、僧侶(そうりょ)や信徒の多くは、国際貿易港であった堺(さかい)へと避難、その6年後、帰洛が認められ、16本山が復興を果たした。
復興を支えたのは町衆であった。京は公家(くげ)や高級武士が住居した上京(かみぎょう)と、商工業者の下京(しもぎょう)に分けられる。
下京は油屋・酒屋・呉服商・土倉(どそう)(金融業者)で活気に満ち、篤(あつ)い法華信仰を持(たも)ちながら自治組織をつくり、寺々を護持(ごじ)していたのである。
この町衆の支援を受け、否、町衆のなかから素晴らしき法華芸術の大輪が開いた。
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・尾形光琳(おがたこうりん)・俵屋宗達(たわらやそうたつ)・後藤祐乗(ゆうじょう)・狩野派や楽家(らくけ)の人々、そして、長谷川等伯(とうはく)である。
昨年、日蓮聖人が清澄山上でお題目を始唱されてから750年という記念すべき年を迎えた。
その記念事業の一環として東京上野にある東京国立博物館平成館(へいせいかん)で、今年1月15日から2月23日まで、「大日蓮展」が4部構成で催され、第4部「法華文化の精枠」で京の法華芸術が展観される。
わけても圧巻なのは、関東に初めてお出ましになる京都本山本法寺(ほんぽうじ)格護の国重要文化財『大涅槃図(だいねはんず)』である。
縦945九四五×横巾594cm。
その大迫力は見る者を圧倒する。
作者は天才絵師・長谷川等伯である。
天文8年(1539)、能登国(現石川県)七尾(ななお)に等伯は生まれる。
父・奥村宗道は七尾城主畠山(はたけやま)家の家臣であったが、縁者・奥村文次を介し、等伯は幼くして染色業の長谷川宗清の養子に迎えられ、幼名を久文といった。養父宗清は絵を嗜(たしな)み、等伯も雪舟(せっしゅう)の弟子・等春に学んだ。
26歳のとき、『日蓮聖人像』『釈迦多宝仏図(しゃかたほうぶつず)』(ともに富山県大法寺蔵)を描いたのを手始めに、仏画を次々と世に送る。
『能登に等伯あり!』との名声は、次第に京の都にまで届くようになった。
等伯が日蓮宗関係の絵画を多く描いた由は、菩提寺(ぼだいじ)が日蓮宗長壽寺(ちょうじゅじ)で信徒であったこと、本山妙成寺(みょうじょうじ)を中心とした能登地方は、日像上人布教(ふきょう)ゆかりの、法華信仰に篤い土地柄で、その影響を受けていたからであろう。
戦国の乱世が漸(ようや)く落ち着きをみせ始め、織田信長(おだのぶなが)が上洛した永禄(えいろく)11年(1566)、妻妙浄(みょうじょう)との間に嫡男(ちゃくなん)久蔵が誕生する。
3年後の元亀(げんき)2年には養父宗清・養母妙相が相次いで逝き、等伯は意を決して上洛する。
逗留先は本法寺塔頭(たっちゅう)の教行院(きょうぎょういん)。本法寺・教行院も天文法難により焼失し、京に帰って間もないころだった。
本法寺は久遠成院(くおんじょういん)日親(にっしん)上人(1406~1488)によって開創、開基檀越(かいきだんのつ)は本阿弥清信(光悦の曾祖父)である。
等伯が上洛したときの本法寺住職は第8世・治国院(ちこくいん)日堯(にちぎょう)上人であったが、翌年遷化(せんげ)。
第9世・正覚院(しょうがくいん)日円(にちえん)上人、第10世が最も親交のあった功徳院(くどくいん)日通(にっつう)上人(1551~1608)である。
日通上人は関西学派の名僧・仏心院(ぶっしんいん)日珖(にちこう)上人に仕え、学問・文化・芸術に通じた僧で、後に中山法華経寺(なかやまほけきょうじ)第14世に晋(すす)み、国宝『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』第25紙目を補筆した人でもある。
等伯は京に住しながら日珖上人布教の地・堺へとしばしば出向いた。
この堺で法華信仰を育(はぐく)む人々と出会い、自身の信仰を深めた。
また、文人と接し、絵師としての教養を高め、修業を積んでいった。
等伯は自ら"雪舟より5代目"と記しているように、数多くの水墨画を描いている。
ことに、国宝『松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)』(東京国立博物館蔵)に見られる水墨画は、霧にけむる松林が墨の濃淡によって見事に表現されている。
一方、国宝『楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)』(京都智積院(ちしゃくいん)蔵)は、実に楓がカラフルに、禅のワビ・サビという世界ではなく、法華芸術の持つ豊かな情感をたたえる作風となっている。
まるで別人が描いたようなこれ等の2作品、等伯はさまざまな表現でいともたやすく描いている。
京に出た等伯は、町衆や堺の人々と大いに交わり修養を積むうちに、当時の画壇を独占していた狩野派(本山妙覚寺(みょうかくじ)檀越(だんのつ))を脅かす存在となっていった。
天正(てんしょう)18年(1590)、京都御所造営に際し、対屋(たいのや)の障壁画制作を争ったとき、『はせ川と申す者に襖絵(ふすまえ)を描かせるのは、はなはだ迷惑である』と狩野永徳(えいとく)と嫡子・光信が宮中に申し出たという。
等伯の実力が狩野派に匹敵する実力を有していた証(証)といえよう。
"狩野派"に対抗する一派、"長谷川派"を興す夢を長子・久蔵に託した。
しかし、久蔵は文禄(ぶんろく)二年(1592)6月、齢(よわい)26で急逝する。
等伯55のときだった。
後事を期待した久蔵の死に、等伯は精神的に落ち込んでしまう。
その身を案じたのは日通上人であった。ある日、本法寺書院に招き、
私は子どもを持ったことがないので何(な)んと申し上げたらよいか言葉が見つかりませんが、
人はいずれ死ぬる者、早いか遅いかですよ。
仕事に打ち込むことが一番の供養になるのではないですか
と11歳年下の日通上人は言い放った。
この言を聴いて我に返った等伯は、先に霊山浄土(りょうぜんじょうど)へと旅立った久蔵への想いを込めて大作を手掛ける。
この大作は慶長(けいちょう)4年(1599)4月に完成。
6月の七回忌法要に間に合わせ、日通上人が住職する本法寺に納められた。
昨年の3月、「大日蓮展」出展調査のため東京国立博物館の方と『大涅槃図』を拝観する機会を得た。
我が眼に一見するだけでは収まらない大画面であった。
首を上げ、左右に大きくゆっくりと振らなければ全貌を拝すことができない。
すると、大塚泰詮貫首(かんじゅ)が隣に来て、
この犬(ワン)ちゃん素晴らしいやろ。
等伯さんの気合がこもっておる。
それも洋犬ですわ。コリー犬ですかな。
多分、堺で見られたのですかな
私の横にいた東博の田沢先生も大いにうなずき、
そうなんですよ。
等伯はとても動物好きだったようで、血の通った作風がこちらに伝わってくるんです。
特に犬は好きだったようです
と等伯の人柄を話してくれた。
京の町衆や堺の人々と縁を結び、絵師として大成し、感動を与える作品を次々と世に送った等伯。
彼を精神的に支えたのは法華信仰であり、仏心院日珖・功徳院日通という近世日蓮宗を代表する僧たちであった。
今年1月15日より催される「大日蓮展」で、ぜひ、『大涅槃図』を仰ぎ見、等伯の魂魄を感じとっていただければと思う次第である。