大覚大僧正や鍋かむり日親上人の布教により「皆法華」の郷が次々と生まれた吉備地方。題目講や曼荼羅開帳の伝統を守り継ぐ聖地を訪ねる。
広島県初の宗門史跡を訪ねる
岡山県との県境に位置する福山市は、新大阪から新幹線で約1時間。潮待ちの港として古くから栄えた鞆の浦があることで有名な瀬戸内の町だ。今回訪ねたのは、鞆港がある沼隈半島の山中に広がる小盆地、山田の里(現 熊野町)。そこに約550年の歴史を有する備後の名刹、常國寺がある。2018年7月には「日親上人西国布教の道場」として広島県初の宗門史跡に指定された。
創建は文明年間(1469~87)。京都の本山本法寺を開いた「鍋かむり日親さま」こと久遠成院日親上人が九州布教のため京都と九州を往復中、中継地の鞆の浦に寄港し、山田の里を巡錫した。その際、上人のもとへ駆けつけ再会に涙した人物がいた。京の都で上人に帰依していた領主(一乗山城主)の渡邊越中守兼(かね)である。
兼は、同郷の信者だった宮近門民部左衛門尉藤原信定から日親上人筆「大曼荼羅」「法華経要文」「円頓章」の三幅対と、寺院建立の遺志を受け継いでいた。そこで自邸を上人へ捧げて常國寺を建立し、全領民を法華信者に変えたという。以来、上人は九州渡航の中継地として度々常國寺に寄り、渡邊家は代々法華経を熱心に信奉する。
兼から三代のちの元(もと)の時代には、織田信長によって京を追われ、鞆に12年間流寓した15代将軍足利義昭の警固・接待を渡邊一族が担った。その縁もあってか義昭はうち3年を常國寺に蟄居し、日親上人に灼熱の鍋を頭にかぶせるなど非情な拷問をした自身の高祖父、6代将軍義教の所業を懺悔する日々を過ごしたと伝わる。出立の時には滞在の礼として寺に格式を授け、「将軍門」と呼ばれる四ツ足唐門や、細工の見事な硯などを残している。
その後、時代は移り領主も変わるが、人々の心を繋ぐ法華の教えはこの地に根付き、山田の地は「皆法華」の里であり続けた。町内には今も37の講中があり、大小30以上のお堂が飛び地境内に点在。お堂に寄り合い南無妙法蓮華経を唱える「講中題目」の伝統が受け継がれ、町全体が一つの家族のように助け合う。福山城主水野勝成の三男が住職を務めた江戸前期の頃の伽藍が立ち並ぶこの寺も、檀信徒にとってはわが家と同じくらい大切な存在。草取りや花生けなど、手入れの行き届いた境内を眺めればその信仰の熱心さがしみじみと伝わってくる。
江戸時代からの古い道や田んぼの景色が懐かしい熊野町。日親上人辻説法跡である時見堂や、兼が築いた一乗山城跡、領主や旅人が休憩した六本堂など、一日ゆっくりと歴史散策を楽しむのもおすすめだ。
大曼荼羅と文化活動の名刹
備後福山から少し足を伸ばして備前岡山の名刹もお参りしたい。岡山駅から徒歩15分の蓮昌寺は、春秋開帳の「大まんだらさま」で有名な寺院だ。高さ7メートル、幅4メートル、美濃紙75枚分を継ぎ合わせた巨大な髭曼荼羅が吹き抜けの本堂内陣に掛けられる様はまさに壮観。日蓮聖人の孫弟子、日像上人の筆と伝わる備前法華の霊宝だ。
その大曼荼羅が京から備前へと伝わる少し前の南北朝時代、日像上人の高弟大覚大僧正が中国地方を巡錫し、当初は日蓮宗に懐疑的だった備前国守護の松田氏がその教えに敬服して帰依。一寺を建立したのが蓮昌寺の始まりだ。
代々熱心な信者だった松田氏をはじめ、後にこの地を治める宇喜多氏や小早川氏からも保護を受け、中国第一と謳われるほどの巨刹に。備前法華の中心道場として繁栄し、末寺は数百にものぼったという。その後、時の権力者から弾圧を受けて規模縮小の憂き目に遭うこともあったが、それでも十八間四方の国宝大本堂や国宝三重塔などの七堂伽藍が戦前まで威容を誇っていた。大曼荼羅が同所の所有となったのは江戸初期のこと。御開帳には備前一円から信者や他宗の人まで押し寄せて賑わいをみせた。地域の古老の話では、露店や飲食店が軒を連ねる参道は、まるで東京浅草の仲見世のようだったそうだ。
それが1945年、約9万5000発の焼夷弾投下によって市街地が火の海となった岡山大空襲で灰燼に帰し、さらに境内地は10分の1以下に縮小されてしまう。しかし、疎開させてあった大曼荼羅と、宗派を超えた地域貢献の精神は今も脈々と受け継がれている。
現在も続く「大まんだらさま」御開帳は5月1日と10月1日の年2回。地域の若者が中心となって行う夏祭りも例年多くの人で賑わう。
さらに寺を「民間の文化会館」と位置づけ、剣道や合唱など50の文化団体に活動拠点を提供。試合などの正念場で不安を消し去り本来の力を発揮する強い心の持ち方など、法華経の智恵を広く人々に伝授している。悩める人には寄り添い、地域の拠り所となっている。
古仏で知られる山里の寺院
岡山市にあるもう一つの名刹、日應寺は岡山空港近くの山里にある。山麓の斜面に広がる境内は木立に囲まれひっそりとし、奈良時代創建の古寺らしい風情が漂う。
当初は三論宗の寺として開かれた。聖武天皇、孝謙天皇、桓武天皇の病を法力によって治癒した3世報恩大師が活躍し、孝謙天皇勅願四十八か寺の根本寺として繁栄。大師が法華経を読誦して桓武天皇の病を治した時には、天皇家に代々伝わる不動明王像と毘沙門天像、密迹執金剛(仁王)像を賜ったという逸話も伝わる。
平安初期の876年には天台宗へ改宗。日本の臨済宗の祖、栄西禅師もここで修行を積んだという。天台宗当時のものはほとんど残っていないが、奈良の子嶋寺から譲り受けたと伝わる不動明王像と毘沙門天像は鎌倉時代の作とされ、国重要文化財に指定されている。かつては桃山時代の様式を残す茅葺き屋根の番神堂(県指定重要文化財)内に祀られていたが、現在は宝物庫に安置。細部まで作り込まれた丹精な姿でファンが多い。
日蓮宗になったのは、領主である松田氏の威圧によって寺が次々と改宗されていた頃で、1559年のこと。その時、集落の人々も丸ごと「皆法華」になったという。
以来、熱心な檀信徒から崇敬を集めたことは、境内に立ち並ぶ壮麗な伽藍が物語っている。現在の本堂は1831年~34年の建造で、内陣から外の廊下まで約400枚もの天井絵に彩られている。欄間や向拝部分の彫刻も細密で素晴らしく、蕪や大根、西瓜といった農作物が生き生きと彫られているのも見どころだ。このほか、仁王門には、桓武天皇より下賜されたと伝わる密迹執金剛像が安置され、本堂奥の森へ進むと勅使堂跡や王の御膳所跡、報恩大師や栄西禅師が滝行をしたと伝わる不動の滝などもある。
四季折々に美しい山寺でのひとときは、慌ただしい日常を離れてふっと落ち着く。ここに集まり御題目を唱える人々の温かな笑顔にも心が和む。