南国の美しい風景の中で静かに時を刻み続ける数々の戦跡。その近くで戦没者の追善供養を続ける日蓮宗の名刹を巡る。
旅の始まりは沖縄戦終焉の地から
1945年の沖縄戦は、島民を巻き込んだ凄惨な地上戦として知られている。「鉄の暴風」といわれるほど凄まじい米軍の砲撃と空襲によって、島々は山容を変え、多くの文化遺産は破壊され、死者は日米の軍人、沖縄の民間人を合わせて二十数万にものぼった。
お寺巡りの前に、その終焉の地である糸満市の摩文仁の丘を訪ねた。国立戦没者墓園などがある丘の上から、「平和の礎(いしじ)」や平和祈念堂などがある丘の下まで、一帯約40ヘクタールが平和祈念公園として整備されており、誰もがいつでも参拝できる。
園内を歩いてみると、聖木ガジュマルの神秘的な樹形、人懐こい青い鳥イソヒヨドリ、険しくも美しい海蝕崖など自然豊かな風景が次々と現れて、まるで南国の楽園のよう。しかし、かつてここはおびただしい数の遺体で埋め尽くされていた・・・。そう思った途端、今ある平和が当たり前のものではないと気付かされる。
園内の平和の礎には、沖縄戦の全戦没者の名が、国籍や軍人、民間人の区別なく刻まれている。また、平和祈念堂に安置される平和祈念像は宗教、思想、政治、人種も超えた人間の祈りの姿を象徴しているという。これが沖縄で培われてきた「平和のこころ」なのだと実感しながら、那覇市にある法華経寺へ向かった。
那覇の激戦地にある修行道場
法華経寺があるのは、那覇の目抜き通りである国際通りからほど近い丘の上。急斜面に張り付くように続く階段を上りきると本堂があり、振り返ると那覇市街が一望できる。
地元で慶良間チージと呼ばれるこの丘は、戦時中、日本軍には“すりばち丘”、米軍には“シュガーローフ”と呼ばれ、沖縄戦の激戦地の一つとなった。日米両軍はもちろん学徒隊や住民を含めて多くの死傷者を出した。
法華経寺では、6月23日の「慰霊の日」をはじめ、毎月のように慰霊行脚を行い、敵味方を問わず戦没者の霊位を供養し続けている。そして、戦後70年を越えた今も一般道路を米軍戦車が走り、上空を戦闘機が飛び交う沖縄の現状を語り、平和の尊さを訴えている。
法華経寺の歴史は、1975年に一人の日蓮宗僧侶、鹿糠尭順(かぬか・ぎょうじゅん)氏が沖縄開教のため単身沖縄へ渡り、民家に寄留しながらうちわ太鼓を手に全島を行脚したことに始まる。「滅びることを恐れるな。法華経に生きよ」という信念は現住職にも受け継がれ、青少年更生のため住職自らが街を駆け回ったり、修行道場として修行者を常時受け入れたりしている。
誰もがいつでも参拝できる雰囲気は、旅人にもやさしい。週に一度、宗派を問わず気軽にプチ修行ができる「日曜の集い」も開かれており、唱題行の体験と法話の後、修行者が手作りする昼食のふるまいもある。かつての激戦地に立つお寺で平和を祈り、“心の洗濯”をしよう。
招福の寺と親しまれる身延山別院
沖縄と同じく南国リゾートのイメージを持つ宮崎県。日南海岸沿いのフェニックス(ヤシ科)の並木や、青島を取り巻く波状岩「鬼の洗濯岩」の景色を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、戦時中はやはり度重なる空襲に見舞われた地。防空壕や掩体壕(えんたいごう)などの戦跡が今も各所に残されている。
掩体壕とは、航空機を敵の攻撃から守るために建設された施設。現在の宮崎空港の周辺に多く見られるのは、当時ここに海軍赤江飛行場があったためだ。もとはパイロット養成の練習基地として建設されたが、終戦間際には特攻基地となり、沖縄周辺のアメリカ艦隊に向けて130人を越える若者が出撃して命を落とした。
今回訪ねた立正寺は、その空港から車で20分、大淀川北側の県庁近くに位置している。明治時代の開創以来、市街地の人々に寄り添いながら布教を続け、大正時代に身延山別院の称号を受けた名刹だ。戦後、県庁前の西橘通り(通称ニシタチ)が市内最大の繁華街となっていくなど、街の復興を間近に見守り、今も地域の人々の憩いの場として親しまれている。
本堂には、宗祖尊像とともにスリランカのガンガラーマ寺より譲り受けた仏舎利を安置しているほか、弁財天の使いとされる白蛇「ハッピー」を飼育している。また、境内には招福大観音像があり、台座の中に賽銭を投げ入れた際、きれいな鈴(りん)の音が聞こえると、縁起がいいとされている。そんな楽しい仕掛けも参拝者が後を絶たない理由のひとつ。旅行者も気軽にお参りできる雰囲気がうれしい。
空襲を退けた「火防せのお祖師さま」
NHK大河ドラマ「西郷どん」の人気でますます注目が高まっている鹿児島にも、日蓮宗の名刹がある。旅行者が一度は立ち寄る繁華街、天文館からすぐのところにある教王寺だ。
明治時代、まだ天文館一帯が空き地の目立つ寂しい場所だった頃、松林尋常小学校跡地で開教したのが同寺の始まり。やがて大正時代の1919年に東京・池上本門寺より国重文の祖師像の御分体が遷座され、護圀山教王寺の寺号を公称した。遷座の際、御分体が船に乗せられ丁重に運ばれる様子は、さながら大名行列のようだったという。
この御分体には不思議な言い伝えがある。1945年の鹿児島大空襲の際、当時の住職が防空壕への避難を考えたところ、祖師像より「ここを動かぬ」というお告げがあった。お告げに従って避難せずにいると、辺り一面が焼け野原になった中、同寺だけが焼け残ったという。
鹿児島市では同年3月から8月にかけて8回にわたる大空襲により、死傷者およそ8000人の被害を出した。特に6月17日の空襲は激しく、市街地はまさに焼け野原になっている。そんな中で、焼け残った寺の存在は生き残った人々の目に、まさに奇跡として映ったことだろう。以来、この祖師像は「火防せのお祖師さま」と呼ばれ尊崇を集め、お参りする人々に常時開帳されている。
地域に親しまれる理由は毎年1000人の人出でにぎわう鹿児島の名物行事「星祭節分会」にもある。2月3日寒空の下、境内では120年以上続く伝統の水行が行われ、その様子は迫力満点。参拝者は祈祷や福豆を受けて、新たな一年の無病息災を願う。
行事のない日もいつでも参拝できる。御首題を希望する場合は事前に連絡しておくのがいいだろう。