戦後70年を越え、今改めて広島で祈りたい「世界立正平和」の実現。「備前法華」の聖地、岡山でも心揺さぶる布教の歴史物語に出会う。
原爆の爪痕残る日像上人開山の寺
1945年の終戦以来、8月は日本人にとって特別な意味を持つ。戦争の愚かさに向き合い、平和への誓いを胸に刻みつける大切な節目。終戦後すでに70年以上が経ち、戦争体験の語り部が高齢化によって減っていくなか、戦争遺跡を巡ることの大切さを感じて真夏の広島を訪ねた。
広島市の中心部に広がる広島平和記念公園で、まずは原爆ドームや原爆死没者慰霊碑に手を合わせる。爆心地の島病院は、原爆ドームの目と鼻の先だ。その上空600メートルで炸裂した一発の原子爆弾によって広島市は壊滅した。
財団法人広島平和文化センター発行の『ヒロシマ読本』によると、その状況は爆心地から半径1キロの範囲は木造家屋の大部分が一瞬で粉砕されて全焼、1~2キロの範囲では全壊および大部分が焼失、2~3キロでは大破および部分的な焼失、3~4キロでは中破の状態だったとある。
この後向かった広島駅から徒歩10分のところにある國前寺は、爆心地からおよそ2・6キロ。堂宇は爆風でねじれるように傾いたが倒壊は免れた。そして、たくさんの人が境内に逃げて来て、雨風をしのいで半年ほど暮らしたという。
お堂はその後も長らくねじれたままになっていたが、平成の大修理でようやく復元が完了した。本堂内には被爆で破損した瓦が展示され、ガラス片の突き刺さった柱や鴨居はそのまま残されている。
実はこの本堂および庫裏は、広島藩二代浅野光晟(あさの・みつあきら)と正室満姫(まんひめ、自昌院)が、寛文11年(1671年)頃に菩提寺として整備した七堂伽藍の遺構で、国の重要文化財に指定されている。満姫は加賀藩三代前田利家の三女で、祖母の寿福院は熱心な法華信者として有名だ。寿福院の菩提寺は、日蓮聖人の孫弟子である日像上人が数々の法難を乗り越えて能登に開いた妙成寺。実は、広島の國前寺も日像上人開山の伝承が残る古刹であり、不思議な縁が感じられる。
寺伝によると、もとは弘法大師創建の真言宗寺院として始まったが、暦応3年(1340年)に日像上人がこの地を訪れた際、真言僧の暁忍(ぎょうにん)が日蓮宗に帰伏改宗したと伝わる。当時は山門の石段下まで海が迫っていたとか。日像上人が船を繋いだとされる松の史跡が残っている。
広島の心の拠り所「とうかさん」
もう一か所、市街地の圓隆寺も参拝した。
元和5年(1619年)に広島藩初代浅野長晟(ながあきら)が國前寺17世日音上人を招いて開山した寺だ。ここでは創建以来、法華経の守護神である稲荷大明神(とうかだいみょうじん)を祀り、藩主のみならず庶民にも広く信仰されてきた。特に、6月第1金曜~日曜に行われる「とうかさん」と呼ばれる祭りは広島三大祭りの一つで、その歴史は400年。「浴衣の着始め祭り」とも呼ばれ、広島に夏を呼ぶ風物詩になっている。
人々に親しまれるこの寺が位置するのは、爆心地から950メートル。被爆時は、1600坪あった広大な境内の杜や七堂伽藍は一瞬にして全壊焼失。辺り一帯が灰燼に帰した。寺が所蔵する当時の新聞記事を拝見すると、そこには直後の様子を写した米軍の写真が。瓦礫の中にぽつんと佇む掘っ立て小屋のお堂があり、その前で正座して拝む人々の姿。多くの人が家族や友人を亡くし、その冥福を祈る場所を必要としていた。
過酷な状況にありながら、翌年には35坪のお堂が建てられ、驚くことに「とうかさん」も復活した。この大祭が広島の人々にとって大切な心の拠り所であるという証しだ。かつて境内地だった場所に延びる中央通りは、今や中国地方随一の繁華街。「とうかさん」の期間中は、沿道に800軒の露店が並び、3日間で45万人もの人出となる。
原爆で街は壊滅しても人々の信仰は失われることはなかった。祭りとともに連綿と受け継がれる平和の灯が未来へ受け継がれますように……そう願わずにはいられない。
聖地「野山法華」の名刹へ
広島県に隣接する岡山県は、「備前法華」といわれる通り、日蓮聖人の教えを受け継ぐ寺院が多く点在する。広島市内から車で2時間15分、吉備高原の山里で700余年の時を刻む妙本寺へ向かった。
妙本寺は、西国布教最初の法華道場として宗門史跡に指定される名刹で、備前地方では「西身延」と称されている。開基は、鎌倉で聖人に帰依した伊達朝義という武士。法華経への迫害から、ここ岡山へ移封されるが、その信仰心が揺らぐことはなかった。まずは自らこの寺を建立し、そして約20年かけて近隣10か寺すべてを改宗。「野山法華」と呼ばれる法華村を実現したのだ。
篤い信仰心と助け合いの精神は、今も地域の人々によって守り継がれる春秋の大祭「妙本講」や、境内の掃除などに脈々と息づいている。
朝義は、念願だった日蓮聖人、日像上人の招聘(しょうへい)が叶わないまま没するが、その後、「備前法華の祖」と呼ばれる日像上人の弟子、大覚大僧正が訪れる。はるばる西国までやってきて朝義の創り上げた理想郷を見た大僧正の感慨は量り知れないものだっただろう。同寺がその後、西国布教の拠点になったことは言うまでもない。
境内にある三十番神堂は、国内最古の三十番神堂として国の重要文化財に指定されている。建立にはこんな逸話がある。明応6年(1497年)に京都の吉田神道の卜部兼倶が、妙本寺7世日具上人の著した「三十番神問答抄」にたいそう感激し、京都の宮大工を遣わして寄贈したものだという。
身延山や鎌倉から遠く離れた西国の地で、聖人の教えが生き生きと継承されてきた歴史がここにある。
本殿に唱題響く最上稲荷
岡山では、妙本寺から車で30分の妙教寺にも立ち寄りたい。「最上稲荷(さいじょういなり)」の名で親しまれる日本三大稲荷の一つ。創建は古く奈良時代にさかのぼり、当初は天台寺院として建立された。しかし、戦国時代の戦火で全焼した後、法華信者だった領主の花房職之によって法華の寺として再興されたのだ。
境内は、備中高松城を見下ろす龍王山の南斜面に広がっており、寺域はおよそ60万平方メートルに及ぶ。中腹の平坦地に日蓮聖人を祀る根本大堂や、最上尊を祀る本殿があり、山上の題目岩まで徒歩約20分の登拝道が続く。
最上尊とは、開山の報恩大師が感得した法華経の守護神、最上位経王大菩薩のこと。庶民からは「不思議な御利益を授ける最上様」として絶大な信仰を集め、初詣には三が日で60万人、年間300万人が参詣する。大注連縄を張った壮大な本殿を前にすると、ここが寺であることを一瞬忘れそうになるが、お堂の中から聞こえてくるのは僧侶による読経、御題目である。
根本大堂で聖人に手を合わせた後、隣の客殿へ。参拝者の多い本殿と目と鼻の先にありながら客殿へ立ち寄る人はそれほど多くなく、池泉回遊式庭園「寒松庭」をゆっくりと眺められる静かな穴場といえる。夏の深緑もいいが、山が色づく秋の景色も美しい。紅葉狩りがてら名刹巡りを楽しむのもおすすめだ。