

霊峰富士の南麓に広がる富士市と家康ゆかりの静岡市で古刹巡り。少し足を延ばせば聖地・身延山。日蓮聖人を近くに感じながら旅したい。
『立正安国論』構想の霊跡
日蓮宗の総本山、身延山久遠寺から車で1時間10分。年間10万人が訪れる富士見の名所であり、桜やアジサイ、ツツジなど四季折々の花が咲き誇る富士市岩本山(標高193㍍)の南斜面に広大な寺域を持つ實相寺がある。総門から仁王門、大書院、本堂、祖師堂、一切経蔵、そして中腹には天満天神宮、常経稲荷、さらに山頂には七面山からの御分体を祀る七面堂があり、大伽藍をなす。
寺の創建は久安元年(1145年)。もともとは天台宗の寺として鳥羽法皇の命により建立した。開創の際に唐渡りの一切経を格護したことで知られる。
時は流れ、正嘉2年(1258年)、鎌倉が相次ぐ洪水や地震、疫病で荒れ果てていた頃。37歳の日蓮聖人は国難を治めるため、同寺の一切経蔵に約2年参籠して膨大な経典を閲覧し、『立正安国論』の構想を練った。その経蔵は戦国時代、武田氏の侵攻で経典とともに焼失したが、長い石段を上った山腹の同じ場所に再建され、今も木立の中にひっそりと立つ。内部の一切経は徳川家康三十三回忌に納められた天海版など6千巻を越える。その秘奥(ひおう)を読み解こうと全霊を傾ける聖人の姿が今もそこにあるような気がした。
聖人が入蔵した際、のちの六老僧である日興上人と日持上人はここで聖人と師弟の縁を結んだ。常に側近として給仕していたのが日朗上人であり、往時を偲ぶ「米とぎ井戸」が境内の一角に残る。また、当山の学頭であった智海法印が聖人に帰依して日源の名を賜わり、のちの建治2年(1276年)、全山あげて日蓮宗に改宗した。
宗門の重要な霊跡である實相寺には、日蓮宗のすべての僧侶が入門修行で必ず訪れる。一方で、岩本山へ遠足にいく子どもたちや散歩がてら訪れる人々の憩いにもなっている。地元で親しまれる“歴史舞台”にたたずみ、760年の時を超え、聖人の心に触れてみたい。
吉原宿で愛される門扉のない寺
富士市には、度重なる災害を宿場町の人々とともに乗り越えてきた名刹もある。實相寺から車で20分の吉原宿にある妙祥寺だ。
寺の創建は元亨3年(1323年)。東海道吉原宿は、もとは駿河湾に面していたが、高潮などで町が壊滅状態になり江戸時代前期だけで二度も内陸への所替えを余儀なくされ、同寺も宿場町とともに移転。復興は苦労の連続だったが、海沿いから大きく北へ迂回するように付け替えられた新道に「左富士」の名勝が生まれるなど、宿場はやがて繁栄を極める。
安政元年(1854年)の大地震で諸堂が倒壊した時は、住職や檀信徒はむしろ奮起して再建に取り組み、寺域を広げて大伽藍が整備された。現在の本堂はその際、富士山の麓にある富士宮市の妙蓮寺より開山堂を移築されたもの。今なら車で40分ほどの距離ではあるが、巨大な柱や鬼瓦などの用材を牛で引いて運んだという時代、再建には並々ならぬ努力と信念が不可欠だっただろう。災害を幾度となく乗り越えてきた歴史が吉原の人々の強さや助け合いの精神を育んできたのかも知れない。
安政の大地震で倒壊した後、正門はいったん仮設のものが建てられたが、やがて老朽化で解体され、長らく再建されずにあった。それが2017年、再び住職と檀信徒が力を合わせて再建。木曽檜や美濃瓦、井波彫刻など日本建築の粋を集めた豪壮な造りの中に、たおやかな雰囲気が漂う。実はこの門には扉がない。「24時間お参りできる吉原の心のよりどころ。優しい雰囲気でお迎えしたい」、そんな想いが込められているのだ。
2009年から境内で開催している法話と祈祷と音楽の祭典「吉原寺音祭(じおんさい)」も、今や県外からも多くの人々が訪れるイベントとなり、新たな布教の場となっている。東海道に面した門は昔も今も、地元に旅人に大きく開かれている。
家康を救った椿の伝説
徳川家康が幼少期と晩年を過ごし、永眠の地に選んだ静岡市。そこかしこに“家康さん”の物語が語り継がれ、ゆかりの寺も多い。
世界遺産「三保の松原」に近い海長寺もその一つ。多くの船が行き交い、魚市場や鮮魚料理店が並ぶ清水港からは車で5分ほどだ。仁寿2年(852年)に天台宗の峨岳寺として有度山に創建された後、寛弘8年(1011年)、土石流の被害を受けて現在地へ。その後、文永9年(1272年)に当地で布教していた中老僧日位上人に寺主が帰依して改宗した。
天正10年(1582年)の甲州征伐で、武田方の残徒に追われた家康がこの寺の椿の木陰に身を隠した話が伝わる。その椿は洞穴を持つ大樹とも、千本林ともいわれている。武田方の七人は家康を逃がした責を負って自刃し、寺から徒歩20分ほどのところにある杉原山虚空蔵堂で今も供養されている。そして、家康から発給された朱印は寺に繁栄をもたらし、「椿の御朱印」と称されるようになった。
海長寺に伝わる祖師像や、境内の天神堂に祀られる渡唐天神、峨岳寺の時代に海中から出現したとされる釈迦尊像(貫首の晋山式以外は非公開)などの古仏も興味深い。なかでも本堂の中心に奉安される「願満の祖師像」は、中老僧日法上人が彫刻し、日蓮聖人自らが点眼した(瞳を描き入れた)もの。カッと見開かれた力強い眼光は一瞬たじろぐほどの迫力だが、不思議とひきつけられていく。生前に作られた生身(しょうじん)の像には魂が宿るといわれ、見る人により、その人が重ねた年によっても印象は変わるという。
次に訪れた際には聖人はどんな表情で迎えてくれるのだろうか・・・。再訪の楽しみをいただいた。
お万の方が月に三度参詣
家康が「大御所政治」の拠点とした駿府城。その城下町には、家康と側室お万の方が通った感應寺がある。東海道新幹線静岡駅からは歩いて15分。名物の静岡おでんの店や飲み屋などが立ち並ぶにぎやかな市街の一角に、緑豊かな境内が見えてくる。仁寿2年(852年)に天台宗の感應山瀧泉寺として創建し、建治2年(1276年)改宗の際、感應寺に改名。現在地へは家康の城下町政策で移転した。
お万の方は熱心な法華信者で、慶長14年(1609年)身延山第22世日遠上人が家康の逆鱗にふれ、安倍川の河原で磔にされる寸前で救った話や、女人禁制だった七面山に女性で初めて登った話など、数々の逸話を残している。
当山の第11世日長上人を信望した家康も折々に参詣。お万の方は毎月三度も参拝していたといわれ、その篤い信仰がうかがわれる。家康が亡くなると、お万の方は家康が使った同寺の「御成りの間」で剃髪し、家康が作らせた「放生(ほうじょう)の池」で百か日法要の放生会を修した。
しかし、1945年の空襲で寺はほぼ全焼。戦後は寺域が半減し、池も縮小されたが、70年をかけて境内の森を復活させた。
2005年に再建された本堂はモダンで洗練された雰囲気だ。須弥壇の脇にはチェンバロやピアノが置かれ、春と秋には演奏会が開かれる。「本堂から音楽が流れてくるようなお寺づくり」は合唱団を率いてヨーロッパを巡った住職が若い頃から思い描いてきた姿だという。
お万の方や家康が生きていたら、きっと“古刹の今”を称賛しただろう。