幾多の法難を乗り越えた日蓮聖人。法華経を世界に広めることで、平和な世を築こうと説いた。ハワイ・北米に息づく聖人の教えを知る。
寺院は移民の心の拠り所
ダニエル・K・イノウエ国際空港(ホノルル国際空港)から車に乗り込む。抜けるような青空と、窓から吹く風がなんとも心地いい。ホノルルの中心街を抜け、絶景が広がるヌアヌ・パリ展望台に続くパリ・ハイウェイを走る。空港から25分ほど、ハイウェイ沿いに立つハワイ日蓮宗別院が見えてきた。1957年、現在地に移転。ハスの花を象徴した新本堂は、立教開宗750年とハワイ開教100年に合わせ、2002年に完成した。信徒が丹精込めて手入れした境内のハス池は、訪れた参拝者を癒やしてくれる。
ここで、日蓮宗のハワイ開教を紐解いてみたい。1868年、サトウキビのプランテーション労働者として、はじめて日本からの移民がハワイに渡った。政府間の条約により、移り住んだ「官約移民」の時代を経て、ハワイの日本人の人口が急増。そこで日本の各宗派が次々にハワイ布教を開始した。
1902年、高木行運師により、ハワイ島南部カウにカパパラ日蓮宗教会(現在はチベット寺院)が開かれた。これが日蓮宗におけるハワイ開教である。日本からの移民にとって、寺は憩いの場であり、遠く離れた母国を思う「心の拠り所」であった。開教から10年後、高木師がホノルルに移り、ハワイ日蓮宗別院を開創した。別院では日本語学校を開設するなど、「学びの場」としても日系人を支えたのである。
1941年、日本軍の真珠湾攻撃により開教師がアメリカ本土に拘留されたが、信徒により別院は維持された。苦難を乗り越え、信徒たちと歴代の開教師が、戦後の歴史を切り開いてきたのである。日蓮聖人が誓願された『一天四海皆帰妙法』を思い返す。法華経を世界に広めることで、平和な世の中を築きあげようとした聖人の思いがここハワイで脈々と受け継がれているのだ。別院では、真珠湾攻撃で戦死した日本兵の英霊簿を奉安し、犠牲者に冥福を祈る人々が絶えない。
開教師が伝える聖人の教え
パイナップル畑が広がるオアフ島の中部・ワヒアワの町に日蓮宗ワヒアワ教会がある。ワヒアワは、ホノルル市街から世界のサーファー憧れの地・ノース・ショアへ向かうハイウェイの途中にある静かな町だ。住宅を改装した白い教会が、閑静な町並みに溶け込むようにたたずむ。1948年、沖縄出身の安仁屋(あにや)妙隆法尼により、ハワイ日蓮宗別院ワヒアワ支部として創立された。素朴なワヒアワの地に、社会の安穏を説いた日蓮聖人の教えが息づいている。こぢんまりとした本堂にお題目が響き渡る。
ホノルル妙法寺は、ハワイの政治・経済の中心、ホノルル・ダウンタウンから車で10分のところにある。緑に包まれた境内にはヌアヌ川のせせらぎが響き、市街の喧騒を忘れさせてくれる。1968年に完成した平和仏舎利塔がひときわ美しい。本堂には仏舎利が安置されている。茶道、合気道など日本文化を伝える講座も盛んに実施され、地域との交流を深めている。
マウイ島のカフルイ空港から車で10分にある日蓮宗プウネネ教会。1920年、大場玄勇師により同島の中心都市・ワイルクに仮布教場が創設されたのがはじまり。その2年後、現在のカフルイに移転。95年海外の日蓮宗寺院として唯一の日蓮聖人銅像を建立した。礼拝の象徴として親しまれている。
日蓮宗ヒロ教会は、ハワイ諸島最大の島、ハワイ島の東部・ヒロにある。1959年布教場を設置し、65年現在地に教会を落成した。ハワイ日蓮宗開教の寺、カパパラ教会から曼荼羅と日蓮聖人御像が遷座された。境内の七面堂には、日蓮宗総本山、身延山久遠寺の守護神・七面大明神が祀られている。毎年11月には七面祭が盛大に行われる。
北米開教の地・ロサンゼルスを訪ねて
日蓮宗海外布教を語る上で、北米開教の歴史も忘れてはならない。
アメリカ西海岸の中心都市、ロサンゼルス。高層ビルが立ち並ぶダウンタウンの一角、リトルトーキョーから15分ほど車を東へ走らせると、ボイルハイツの住宅街の中にひときわ目を引く建物が見えてくる。日蓮宗米国別院。ここが、日蓮宗北米開教発祥の寺院である。北米開教の歴史は、日本人移民の歴史とともにある。19世紀後半から本格的に日本からの移民がアメリカ本土へと渡った。鉱山や鉄道建設など、過酷な労働を強いられる移民にとって、心の支えとなったのが「信仰」であり、そのための寺院の建立を望んでいた。
そんな中、1914年5月、リトルトーキョーのホテルの一室を仮会堂として設立した後、旭寛成師により「北米羅府日蓮仏教会」が創立。これが日蓮宗の北米開教の始まりである。その後、シアトル、ポートランド、サクラメントなどに日蓮仏教会が創立したが、1941年、太平洋戦争が勃発。アメリカ西海岸沿岸に住む日本人と日系人は収容所に拘留され、寺院も閉鎖された。しかし、苦境の中にあっても、開教師は収容所で布教を続けた。終戦後、各教会は再開され、日蓮聖人の教えとお題目は途絶えることなく受け継がれたのだ。現在、日蓮宗は北米に10の国際布教拠点があり、15人(2018年現在)いる国際布教師のうち、半数以上が日系二世を含む現地人教師が布教しているという。
日蓮宗米国別院は1940年には、総本山、身延山久遠寺から「身延山米国別院」の称号が与えられた。現在の本堂は70年に新築され、250人収容できる。ゆるやかな曲線を描く木造りの屋根に、華やかな天蓋が映える。ロサンゼルスの喧噪からかけ離れた凛とした空気が漂い、なんとも清々しい。米国別院では、裏千家茶道教室や剣道教室を開講。親から子へ、子から孫へ、信仰の継承をすすめるため、日本文化を伝えながら地域との交流を深めている。
お題目を唱えシンシティーに美しい花を
ショー、カジノ、巨大ホテル・・・砂漠の真ん中で、きらびやかなネオンがあふれるラスベガス。もっとも華やかなストリップ通りから車で東に10分も行けば、静かな住宅街が広がる。そんな一角にネバダ日蓮仏教会観音寺はある。白壁の平屋建てに、五色の仏旗が揺れている。
同寺の金井勝海前主任は北米に開教師として赴任して50年。アメリカで寺院を建てるという夢を抱き、日本を発ったのは1964年。東京オリンピックの年である。ロサンゼルス、ソルトレイク、シアトルなどで海外布教に努めてきた。
2008年にラスベガスの自宅の居間を開放して同寺を創立。長年の夢を実現した。13年、現在地に本堂を移した。15年には二世の金井勝陀師が主任となり英語での布教で「心身魂の癒やしのスピリチュアル・テンプル」として知られるようになった。こぢんまりとした本堂に本尊の大曼荼羅、日蓮聖人像、鬼子母神像、大黒天神像、そして屋久杉で造られた十一面観音像が整然と祀られている。さきほど通ってきたばかりのストリップ通りとは、対極をなす光景だ。手を合わせると旅の疲れもすっと引いていく。
参拝に訪れていた日系三世の信者は、「観音寺は特別な場所。わたしの安息の場です」と話してくれた。「ラスベガスはシンシティ(罪の町)とも呼ばれます。泥水からきれいな花を咲かせるハスのように、この町でお題目を唱え、安穏な『仏国土』が実現できればいいですね」と勝海お上人は屈託のない笑顔で話してくれた。荒涼とした砂漠にいつか美しい花を咲かせるために―。
ハワイ、ロサンゼルス、そしてラスベガス。旅の途中、聖人の教えをかの地で花咲かせようと奔走した開教師たちに思いを馳せてみたい。