織田信長から維新志士まで各時代の英雄が活躍した大阪・堺。地元で親しまれる日蓮宗寺院を巡り、そこに息づく法華精神に出合う。
信長に斬られた大ソテツ
日本一高いビル、あべのハルカス前から大阪唯一の路面電車、阪堺電車に乗って堺市へ。中世から南蛮貿易で大いに栄え、戦国時代は千利休ら「会合衆」と呼ばれる豪商たちが治めた商人のまちだ。織田信長が戦で使った火縄銃も大量生産した。鉄砲だけでなく、輸入に頼っていた火薬の材料、硝石も手に入った。そこで、信長は堺に目を付けたとされる。
堺の市街地の一角に、日蓮宗の本山・妙國寺が立つ。堺の会合衆・油屋常言の子で類い希な秀才といわれた日珖上人が、京都にある本山・頂妙寺第三世の頃、戦国武将三好実休の寄進を受けて永禄5年(1562年)に開創。信長ゆかりの「夜泣きの蘇鉄」がある名刹だ。世にも見事な巨大ソテツで、信長の所望で安土城に移植した。すると毎夜「帰りたい」と泣き、怒って切れば血を流し、火にくべれば白煙を吐いたため、祟りを恐れて寺へ返されたという話だ。傷だらけで戻ったソテツは、開山の日珖上人がお経を一千巻あげて蘇らせたと伝わる。信長の手に落ちなかったソテツは堺の町衆の誇りとなり、シンボルになった。
同寺には徳川家康も度々訪れており、本能寺の変の折に滞在していたなど興味深い逸話が多い。
また、幕末に起きた堺事件(1868年)の舞台でもある。狼藉を働いたフランス兵を殺傷した責任をとり、11人の土佐藩士が切腹したのがこの境内なのだ。事件から150年。境内には切腹した11人の土佐藩士と、藩士に討たれた11人のフランス兵の供養塔が静かにたたずむ。
様々な歴史の舞台となった妙國寺。地元でも超宗派の寺として親しまれている。
大坂城の北と南に名刹あり
大阪にも400年の歴史を持つ法華道場がある。豊臣秀吉の大坂城築城後の文禄年間(1592年~1596年)に開かれた北区の本傳寺が、その一つだ。
京都の大本山・本圀寺の第十六世日禛上人の法子、日政上人により開創された。開創時、この辺りには同寺を含めて数えるほどしか寺がなかったようだが、大坂の陣の後、30数か寺が集められ、“大坂城の北の護り”西寺町がつくられた。江戸初期の古地図を開くと、曽根崎から天神橋筋辺りまで 一直線に並ぶ寺院群があり、その中に同寺の名が見える。境内には新選組で活躍した谷三兄弟の供養塔があり、参拝する新選組ファンが絶えない。
1945年の大阪大空襲など四度の大火で詳しい寺歴は失われたが、近年の研究で、戦時中に先々代とともに西宮へ疎開されていた日蓮聖人説法像が元和8年(1622年)作と判明。改めて同寺の歴史に思いを馳せる。
江戸から昭和、平成へ。周辺は様変わりして今は歓楽街になっているが、西寺町の寺々は健在。近松門左衛門の「曽根崎心中」で有名なお初天神も近い。
文人に愛された紅葉寺
その近松と競った浄瑠璃作家、紀海音の墓がある寶樹寺も隠れた名刹だ。かつては大坂城の南につくられた寺町にあった常照寺宝樹庵が前身。元禄11年(1698年)に京都の大本山・妙顕寺の末寺となり、寶樹寺と号す。昭和2年(1927年)に道路拡張のため現在の東大阪市へ移転した。
移転する前の境内には、立派なモミジの名木があったことから紅葉寺と呼ばれ、紀海音ら文人たちが集っていたとされる。江戸時代の悲恋を描いた紀海音作「八百屋お七」の登場人物の会話の中には法華経が取り入れられていると、寺のしおりにも記されており興味深い。名木の紅葉は寺紋として受け継がれ、境内には紀海音の墓もある。本堂内陣にある日蓮聖人の生涯を描いた11面の欄間は、富山県井波の作家がフランスのロマネスク彫刻で仕上げたもので、見ごたえ十分。三つの米俵の上でヒョイと片足立ちする珍しい大黒さまもあり、人気を集めている。
「戦国最後の美将」を供養
最後は、同じ東大阪市にある蓮城寺を参拝した。1200年を超える古社、若江鏡神社のすぐ隣だ。若江鏡神社の神宮寺が廃れていたのを、元禄6年(1693年)に京都の本山・頂妙寺第十四世の日相上人(中山法華経寺第三十九世)が私財を投じて復興、蓮城寺と名付けた。地元では「宮寺(みやてら)」と呼び親しまれている。
一帯は大坂夏の陣で八尾・若江の戦いが繰り広げられた地。約2000人が命を落としたとされ、豊臣方七人衆の一人で「戦国最後の美将」と謳われた木村重成もここで討ち死にした。
お堂の近辺には多くの遺体が置かれ、重成の首実検のための処置も行われたと伝わる。
位牌堂には、檀信徒や重成の末裔の画家、木村美惠子さんが奉納した重成の肖像画や詩が飾られ、歴史ファンの参拝が絶えない。この地に眠る武者たちを偲び、そっと手を合わせた。400年を経た今も、かつての戦場に法華経の慈悲の精神が惜しみなく注がれている。そんな大阪の信仰に触れた旅だった。