日蓮聖人生誕の地・誕生寺や、立教開宗の聖地・清澄寺、小松原法難ゆかりの鏡忍寺など、海と太陽に彩られる鴨川の名刹を訪ねる。
不思議な伝説「三奇瑞」が残る小湊
房総の南一帯は、古代より安房国と呼ばれた地。その安房東部にある鴨川市には、日蓮聖人ゆかりの地が数多く点在する。生誕の地を伝える安房小湊、そして出家の地であり、はじめて御題目を唱えた森が残る清澄山、そして法難の地、小松原である。
貞応元年(1222年)2月16日、小湊に誕生した日蓮聖人は、12歳までこの地に暮らした。日蓮聖人誕生の歴史を伝える誕生寺は、鴨川市小湊にある。日蓮聖人の願いで建治2年(1276年)、生誕地であり生母蘇生延寿の地でもあった場所に、弟子の日家上人が精舎を建てたことに由来する。明応、元禄の大地震、津波に遭い、現在地に移る。その後、七堂伽藍が再興されたが、宝暦8年(1758年)の大火により、諸堂が消失。唯一大火を免れたのが仁王門である。“日本のかおり風景100選”に選ばれる境内には、線香と海から吹く磯風が心地よく漂う。晨朝法話は毎朝6時20分頃から行われ、時折旅行者も参加している。門前には温泉旅館や土産物店が並びにぎやかだ。
小湊には聖人誕生にまつわる不思議な伝説「三奇瑞」が残る。誕生を祝うように、庭先から泉がわきだし(誕生水)、浜辺では青蓮華が咲き(蓮華ヶ淵)、妙の浦では海面に大小の鯛が群れ集まった(妙の浦の鯛)。聖人誕生の不思議な伝説「三奇瑞」のひとつである妙の浦をめぐるのが「鯛の浦遊覧船」だ。深海性の回遊魚であるはずの鯛が、聖人誕生を祝って海面に群れ集まった様子を船上から体感できる。「鯛の浦遊覧船」では、海面に浮上する鯛を間近にみることができる。
朝日の海を見晴らす立教開宗の聖地
日蓮聖人は天福元年(1233年)5月、生涯の師となる道善房が待つ清澄山に上り、薬王丸と改名する。修行を重ね、16歳で出家。清澄山中の菩薩堂で断食祈願を続けること21日目に、虚空蔵菩薩より知恵の宝珠を授けられる。清澄寺には虚空蔵菩薩を御奉安する。
その後、鎌倉や比叡山などで他宗を学び、法華経こそが第一と悟りを開く。清澄寺に戻った32歳の建長5年(1253年)4月28日、旭が森から洋上の朝日に向かって、はじめて御題目を唱える。この時、名を日蓮と改め、法華経の布教を決意したという。「日月の光明で全てを平等に照らす」と。
旭が森には日蓮聖人像が立つ。本州では一番早い初日の出を拝める場所として、全国から参拝者が訪れる。清澄寺には全20室の宿坊があり、写経や瞑想体験ができる。また、食事処では昼食で精進料理を味わえる(要予約)。
小松原法難ゆかりの名刹が点在
聖人43歳の時、小松原法難が東条小松原で起こる。松葉谷法難、伊豆法難、龍口法難と並び、日蓮聖人四大法難のひとつ「小松原法難」である。母の危篤を聞き、11年ぶりに帰郷した時のことだ。
蓮華寺を拠点に布教活動を行っていた日蓮聖人は、文永元年(1264年)11月11日、法華経の熱心な信者であった天津の領主・工藤吉隆公の招きに応じ、弟子信者とともに故郷を目指す。小松原の地名通り、松林茂る海岸線で待ち伏せていたのは、反勢力の地頭・東条景信一行。突然の襲撃に、聖人は額に三寸の刀傷を受けながらも九死に一生を得る。しかし弟子の鏡忍坊と工藤吉隆公を失う。
その地に立つ鏡忍寺の創建は小松原法難から17年後の弘安4年(1281年)。法難で日蓮聖人をかばい討ち死にした弟子の鏡忍坊と工藤吉隆公の菩提を弔うために、吉隆公の子である日隆上人が建立。法難時に鬼子母神が現れ聖人を救ったという樹齢千数百年の「降神の槙」が残る。
正しきことを正しいと言うことにおいて争いが絶えなかった時代。日蓮聖人はこの法難の後、『されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり』と表明された。強い決意と自覚の表れである。
鴨川市内5か寺には、法難の歴史を伝える古刹がある。多聞寺は、小松原法難で日蓮聖人を救った、工藤吉隆公の家臣で土地の名士、北浦忠吾公、忠内公兄弟の墓所がある。境内には、法難で受けた疵を洗い癒やした、疵洗いの井戸が残る。
日蓮寺には、日蓮聖人が小松原法難で刀傷を受けた際、傷を癒やしたとされる窟が残る。額に傷を負った聖人に綿帽子を差し出し供養したことから、「綿帽子霊跡」と呼ばれている。
日澄寺は、小松原法難で殉教した天津の領主、工藤吉隆公の子、日隆上人が、父を弔うため、自らの居城を寺とした。創建は弘安5年(1282年)。吉隆公の墓所がある。
法難後の聖人が一夜を明かした地に建つ掛松寺。寺名は、そばにあった松に聖人が袈裟を掛けたことに由来する。そばの夜長川の名は、聖人の過ごした夜を偲び命名された。
蓮華寺は、田園を見下ろすのどかな地にたたずむ。「御疵洗之井戸」と書かれた井戸が残る。聖人は小松原からここまで逃げのび、傷を癒やした。