

日蓮聖人、最後の法難地である新潟県佐渡。悲運の配流も、その教えに共感した島人のもてなしが聖人の心を動かし、大切な教義を残した。
聖人着岸の地を参拝する
新潟港から佐渡両津港までの約67㌔を、高速艇はわずか1時間ほどで結ぶ。両津港から車で10分の加茂地区には、日蓮聖人大銅像が立つ。両津湾を背にし、目の前には豊穣の棚田が広がる風景に癒される。
文永8年(1271年)10月28日、日蓮聖人は鎌倉幕府より配流の命を受け、佐渡の地を踏む。御年50歳、生涯最後の法難である。風が吹き荒れる極寒の越佐海峡を日蓮聖人は小船で1日がかりで渡られた。
日蓮聖人が最初に着岸した松ヶ崎は佐渡の玄関口で、北陸道の国津があった地。本行寺の本堂には、着岸に際して光を灯したと伝わる「龍燈の松」の切り株が残る。寺から5分ほど歩くと、日蓮聖人が三日三晩を過ごした「おけやき」の大樹がある。
その後、陽春までの半年は、死人の捨て場とされた塚原での生活を送る。一連の苦難が聖人を目覚めさせ、「自らが末法の伝導師である」と確信する『開目抄』を記させる。両津港から車で20分の根本寺はその執筆の舞台で、日蓮宗の霊跡のひとつ。「この地で『開目抄』を記さねば、我が身が滅びた時に悔やまれてならない」と思われたのだろう。お釈迦様の教えを広め終えるという考えに達せられた。1万7000坪の境内に、本堂や祖師堂、三昧堂など29棟。四季の花が咲き誇り、季節の彩りを添える。
島人との交流の歴史を伝える建造物
根本寺から真野湾へ向け県道を走る。車窓を彩るのは国仲平野に広がる田園地帯。佐渡はコシヒカリの産地として有名だ。なだらかな山を従えてのどかな風景が続く。
20分ほど走ると、杉木立に凛と佇む五重塔が見える。阿佛房と呼び親しまれる妙宣寺である。本堂は江戸時代末期の創建。五重塔は文政11年(1828年)完成で日光東照宮のそれを模したとされる。相川の茂左衛門と金蔵の親子二代の手による。21mの心柱を各層で支える珍しい工法が、近年注目を集める。
五重塔が建つ場所には、開創の阿佛房日得上人千日尼御前夫妻を祀る古い堂があったという。阿佛房は佐渡で最初に日蓮聖人の信者となり、献身的に世話をした。「五重塔はその功績を讃えたもの」と、大切に受け継がれている。
妙宣寺のある真野地区には、日蓮聖人の高弟、日興上人開山で佐渡宗門最初の道場である世尊寺が立つ。開基三祖の国府入道は弘安7年(1284年)に道場を畑方村から国府川畔へ移し、国府道場を構えた。現在地移転は天正10年(1582年)。桟瓦葺で切妻造り平入の赤門、宝蔵、表門などが残る。
佐渡流罪で示された日蓮宗の教義
文永9年(1272年)春から赦免されるまでの2年間は、日蓮聖人は一谷の草庵に暮らす。霊跡本山の妙照寺である。真野湾から車で10分の山あいにあり、静寂に包まれる。
この地、「一谷」の一は“はじまり”を、谷は“きわまる”を意味する。聖人はここで教義思想を示す『観心本尊抄』を著し、本尊『佐渡始顕の大曼荼羅』を顕した。観心とは本尊を心で拝むこと。一谷という地名と、妙法華山という山号は日蓮聖人の命名。300年の時を重ねる茅葺きの本堂や祖師堂などが残る。
徒歩10分ほどのところに立つ実相寺は、日蓮聖人が毎朝、妙照寺より足を運び、朝日を拝み故郷の天津小湊(千葉・鴨川)を偲んだ地。朝日に向かって両親への感謝を思った「思親の霊跡」である。境内に袈裟掛けの松や千年杉があり、往時を偲ぶ。
佐渡巡礼の締めくくりは、赦免の歴史を伝える安隆寺と本光寺へ。
文永11年(1274年)、小木海岸の経島に日蓮聖人の赦免状を携えた高弟日朗上人が漂着した。上人を助けたのが安隆寺の開創、性善坊日顕である。日蓮聖人は赦免され、3年に及ぶ佐渡流罪が解かれた。
本光寺は、日蓮聖人が赦免状を手にして弟子信者と喜びを共にされた場所。境内に宗祖の袈裟掛け松と御腰掛けの石(赦免石)が残る。日朗上人の遺骨、日興上人筆曼荼羅を奉安する。寺の近くには日蓮聖人と日朗上人が出会った日朗坂がある。
悲運の配流であっても、その教えに共感した島人のもてなしが、日蓮聖人の心を動かし、大切な教義を佐渡で残すことになった。