『立正安国論』と関わりを持つ博多の元寇古戦場。法華経信者であった加藤清正公の城下町熊本。九州唯一の本山である光勝寺を巡り、日蓮聖人の教えを知る。
博多湾岸の歴史舞台を見守る日蓮聖人像
九州新幹線の始発駅、博多。海を挟んで大陸と向き合い、古代から貿易都市として栄えた。博多湾内、千代の松原と呼ばれた東公園に日蓮聖人銅像護持教会はある。寺のシンボルである日蓮聖人銅像に手をあわせる信者が絶えない。
日蓮宗僧侶、佐野前励上人が銅像建立に情熱を燃やしたのは、この地が鎌倉中期に起きた元寇(蒙古襲来)の古戦場だから。日蓮聖人は戦乱を予言し、世の乱れを嘆き、「立正安国論」を記した。銅像の完成は日露戦争が勃発した明治37年。世界平和、国土安穏の根本道場が求められた時代であった。岡倉天心が手掛け、17年の歳月を経て完成した。境内には「元寇史料館」を併設し、貴重な資料を展示する。
東公園から車で1時間の福岡県うきは市には、九州で唯一、日蓮聖人の御真骨が分安された本佛寺がある。
明治8年の創建。果樹畑を見下ろす約3万2000坪の境内に、本堂、御真骨堂、清正公堂など11の堂宇が点在する。山の中腹に立つ仏舎利塔は、高さ25メートル。町の至る所から見える。
宝物館には14枚からなる「元寇の油絵」(福岡県指定文化財)や古文書、加藤清正公ゆかりの品を展示する。街道の宿場町・吉井に近く、古くから人とモノの交流が盛んな地である。
震災復興を願う地域住民の拠り所
九州に日蓮宗(法華経)の教えが広まったのは、肥後(熊本)藩初代藩主、加藤清正公の功績が大きい。母、伊都(いと)が熱心な法華経信者であり、自身も生き方の指針とした。
慶長16年(1611年)、清正公は熊本城内で亡くなる。遺言により墓所「浄池廟(じょうちびょう)」が、城の西にあたる中尾山腹の現在地に建てられた。清正公は生前、日蓮聖人を思い、「妙法蓮華経」五文字をあてた五か寺を九州に建てることを発願した。
浄池廟がある本妙寺は五か寺の一つであり、古文書や武具など、ゆかりの品も多数所有する。浄池廟から300段の石段を上がると、熊本市街を見渡すように清正公の銅像が建つ。毎年7月23日に営まれる清正公御報恩供養祭(頓写会)が有名だ。
平成28年4月に発生した熊本地震の影響で、国の登録有形文化財の仁王門、胸突雁木の石灯籠、浄池廟石垣が倒壊し、清正公銅像の槍が折れるなどの被害が出た。現在、清正公銅像は修復され、浄池廟も参拝できる(ただし、仁王門は通行止め)。
震災後、地域住民の拠り所としての役割を果たす本妙寺。参拝者は復興を祈り、心静かに手をあわせる。
九州の名刹で聖人の教えに触れる
佐賀県中央部に位置する小城市は、桜と水と蛍の里として知られる自然豊かな小京都である。ここに文保元年(1317年)、「鎮西発軫(ほっちん)法華道場」(九州で最初の法華経の寺院)として創建されたのが、本山である光勝寺。当初は十万石もの格式を誇った。
境内には28の堂宇が点在する。本堂は慶長年間に、佐賀藩祖の鍋島直茂公により、再建寄進されたもの。総ケヤキ造りで十間四面、内陣は極彩色である。
長崎市にある本蓮寺は、清正公ゆかりの「妙法蓮華経」五か寺のひとつだ。山号の「聖林」は清正公の母の戒名。元和6年(1620年)、日恵上人の開基である。昭和20年、投下された原爆により本堂や堂宇は消失したが、戦後に再建。石組みや石段は、熊本城築城の技術を伝える石工達によるものである。
長崎県島原市にある護国寺は、慶安4年(1651年)に、島原藩主、高力忠房公により創建された。開山は、太閤秀吉朝鮮出兵の折、わずか13歳で加藤清正公に伴われて来日した余大男、のちの清正公の菩提寺、本妙寺第三世住職、高麗日遥上人である。
境内の三十番神堂には、約280年前に藩主の霊夢により造立された「蘇生三十番神」と呼ばれる30体の番神が祀られる。法華経の守護神「三十番神」は、天照大神を主神とし、30日間を日々守護する日本の神々のことをいう。