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この人に聞きたい

インタビュー

更新日時:2018/03/09

シリーズ「未来のお寺を考える」⑨

教師とは人を変えることができる人
育成プログラムで教えられること、教えられないこと
~日蓮宗布教研修所~

今年で56期生となる日蓮宗布教研修所。毎年6月1日から11月30日までの半年間、日蓮宗の教えを伝える教師育成の場として、千葉県松戸市にある本土寺の実相閣内で研修プログラムが行われる。毎年、研修主任がカリキュラム内容を作成。56期は、前回ご紹介した、神戸妙昌寺の村井惇匡住職が務められた。村井チルドレンとなる56期生は、かつてない厳しさの中で基礎を学び、新米布教師として送りだされた。どのような学びがあったのか、2人の修了生にお話を伺った。

 

平成29年度 第56回 日蓮宗布教研修所 研修員
伊久美 龍堅(いくみ りゅうけん)

22歳 僧籍:常照寺
身延山大学 仏教学部 仏教学科卒業
平成27年度第3期信行道場終了

 

平成29年度 第56回 日蓮宗布教研修所 研修員
松下 明潤(まつした みょうじゅん)

26歳 僧籍:妙長寺
身延山大学 仏教学部 仏教学科卒業
立正大学大学院 文学研究科 仏教学専攻 在学中
平成28年度第2期信行道場終了

 

日蓮宗布教研修所
研修副主任 坂井 是真(さかい ぜしん)

福井県越前市 妙智寺住職

 

■在家出身だから負けられない! 誰よりもお経を読む毎日

編集部)
伊久美上人は在家だそうですが、なぜお坊さんを目指したのですか?

伊久美上人)
幼稚園のときに病気をしまして、手術をすることになったんです。私はおばあちゃん子だったのですが、私の手術中に大好きな祖母が亡くなったんです。突然祖母を失い、きちんとお別れができなかったことが、子ども心にとてもショックだったんですね。それで「お坊さんになって、おばあちゃんをずっと供養しよう」と思ったのがきっかけです。

編集部)
幼稚園のときに!? その頃からご供養という気持ちがあるのはすごいですね。

伊久美上人)
まわりの人も「変わった子だ」と思っていたかもしれません。でも小学生になっても、中学生になってもその気持ちは変わりませんでした。意地を張っていた部分もあったかもしれませんが。両親も私の意志を尊重してくれて「帰ってくる家はないという覚悟で行きなさい」と、高校から身延山へ行き、久遠寺の寮に入りました。

編集部)
身延山大学も合わせて7年ですね。在家からお寺の世界に入って、どのように見えましたか?

伊久美上人)
久遠寺でお勤めをしながら大学に行く本山生を選びました。いちばん厳しい選択です。やはり在家なので、「お寺の子に負けたくない」という闘志がありました。実家は東京なので、立正大学で仏教を学ぶこともできたのですが、逃げ場を作ってはいけないと思ったというのもあります。

私は小さい頃からお坊さんに憧れていたので、とても綺麗な、清貧で美しい世界がそこにあるのだと胸を膨らませて門をくぐったのですが、実際はそうではありませんでした。それは「綺麗ではない」という意味ではありません。想像していたよりずっと、お坊さんたちは“普通の人間”だったんです。私は最初、「思っていた世界と違う!」と戸惑いましたが、勉強や修行を続けていくうちに“人間らしくあること”に意味があるのだと気づきました。聖人君子のような存在では、人々の本当の心がわからないのです。入学したての頃は、俗っぽい先輩に出会うと、「お坊さんなのに、それでいいのか?」と疑問に思うこともありました。しかし、聖なる存在で、一般の人の気持ちがわかるのか? 一般の人と同じ生活をしながら、お釈迦様の弟子として生きた方が、愛されるお坊さんになるのではないか? 親しみやすい、人に寄り添えるお坊さんになるのではないか? 雲の上の高貴な存在である必要はない、それがわかりました。

編集部)
布教研修所を希望したのは、どのような目的があったのですか?

伊久美上人)
身延山近くの宝聚院 麓坊でお手伝いをさせていただいていましたが、そちらのご住職に「お坊さんの世界だけを見て、一般常識のない大人にならないように」と言われました。確かに自分は高校生から身延山の中しか知らず、一般の成人として何もできないのに、できる気になっていたと気づきました。このまま上人と呼ばれるのはどうだろう、と思ったのがきっかけです。

その後、ご廟所と奥之院思親閣でお勤めをしていました。御首題帖にはお題目、ご朱印帳には妙法と書くのですが、若い女性がご朱印帳を持ってこられたので妙法と書いて渡したときのこと。「ここにも南無阿弥陀仏って書いて欲しいんですけど」と言われました。

御首題と御朱印の違い、また南無妙法蓮華経と南無阿弥陀佛の違いを説明出来ず、法華経のことを何も言えない自分に気づき、これではまずい、と布教研修所を志しました。

編集部)
布教研修所ではどのようなことを学ぶのでしょうか。

伊久美上人)
カリキュラムは毎年違うそうですが、仏教についての学び、法話の作り方、木鉦、太鼓、声明の技術などに加えて56期は一般的なマナー、お茶の出し方、テーブルマナーなどがありました。お坊さんとしての勉強だけでなく、1人の大人として学ぶべきことを教えていただきました。

●ある日のスケジュール
5時半 起床
6時  お勤め 
7時半 朝食をいただいて食器を洗う
9時まで休憩
9時から講義
昼食
16時まで講義
夕方のお勤め
夕食
自分の仕事(法話作り、お礼状書く)

編集部)
伊久美上人が理想とするお坊さん、理想とするお寺はどんなものですか? 布教研修所に来て理想に近づけましたか?

伊久美上人)
理想が変わりましたね。市井の聖。社会の中にいながらも世間に染まらないお坊さんになりたいと思いますし、それを後輩たちにも伝えていきたいです。この先、どこかのお寺に入ることになると思いますが、いつでもお経があがっているお寺にしたい。久遠寺はどこにいても木鉦の音が聞こえます。音に誘われてお寺の門をくぐってもらうのもいいではないですか。お経でご縁が結べたらと思います。

布教研修所で一番好きな時間は朝のお勤めの時間でした。大勢でお経をあげるのは、もうこれが最後なのだと思うと、1回1回がとても大切に思えて、研修員も先生たちも一緒になってお経をあげているあの時間が、かけがえのない時間でしたね。

編集部)
伊久美上人は今22歳ですが、同世代の人たちはお寺に行っていないと思います。どうすれば来てもらえると思いますか?

伊久美上人)
そうですね。人間、最後にお世話になるのは仏様。最後に頼るなら、日頃の感謝を伝えた方がいいんじゃないか、と友人たちには伝えています。手を合わせられることの有難さを伝えていきたいですね。

 

■博士号を目指す尼僧が気づいた真実

編集部)
松下上人は、お寺の生まれですか?

松下上人)
はい、京都の寺の一人娘として生まれ、父には小さい頃から「将来はお坊さんになるように」と言われて育ちました。でも、私はそんなつもりはなく「本当にお坊さんになるのだろうか?」とずっと自問自答してきました。父の希望は身延山高校に進学すること。反抗したのですがダメでした(笑)。智寂坊でお世話になることになり、結局7年間身延山で過ごしましたが、「私はこのままお坊さんになるのか?」と7年経っても迷っていたんです。その後、僧道林で修行をしたときに「さすがにこのまま進んだら、もうお坊さんだよね」と小さな覚悟のようなものができてきて、そのときの主任先生に「願生(がんしょう)」のお話をしていただきました。自分が願ってお寺の娘に生まれてきたのだと。だからなるべくしてお坊さんになるのだと。お寺の子は2度出家するそうです。1度目は得度をしたとき、2度目はお坊さんになる覚悟ができたとき。「今がそのときなのか」と思いました。それで覚悟を決めて、僧道林を終えて信行道場に入りました。

編集部)
大学院では何を研究しているのですか?

松下上人)
私は日蓮聖人の御遺文が好きなんです。お坊さんとしての姿勢はそこにすべて書いてあると思うんです。そこで、弟子の四条金吾とやり取りした手紙を取り上げ、それらを照らし合わせて事実を洗いだす研究をしています。博士号は文学博士になります。

編集部)
文学博士の法話は興味深いですね。四条金吾で博士論文を書いた尼僧さんというのは、皆さんお話を聞きたいのではないでしょうか。

松下上人)
それを求めたわけではないのですけどね。それよりも、身近な人を救いたい。私はまだ大学院に在学中で、布教研修所のために1年休学して、研修が終わったらまた大学院に戻ります。普通のマンションで一人暮らしをする普通の26歳です。中学から仲良しの友人が2人いるのですが、彼女たちとパンケーキを食べに行ったりもします。そんなとき、彼女たちの悩みを聞きます。会社の人間関係とかですね。私はお坊さんとしてではなく、友人として話を聞き、アドバイスをしたと思うのですが、後日「あのときの言葉が今の心の支えになっている」と言われました。あまりに普通に喋っていたことなので、正直自分が何を言ったか覚えていないのですが、とても嬉しかったのと、私もお坊さんとしての基礎ができてきたのかなと思いました。

編集部)
仏教について学問を深められている松下上人からみて、布教研修所での学びはどんなものがありましたか?

松下上人)
お坊さんは「学」だけではだめ、「行」だけでもだめだと思っています。ここでは「学と行」を両方学びました。法話を何度も経験させていただく、信行道場で教える側として経験させていただく、お会式で裏方をお手伝いさせていただいたときに、あの光景を見て「有難い」という気持ちが溢れ出てきました。行の中で得られたことは、ほんの小さなことでも「有難い」と感じるようになったこと。これは、大切な友人ふたりにはもちろん、この先私が出会うすべての人に伝えたいと思っています。

布教研修所に来たばかりのときは、自分のことがまるでわかっていませんでした。お坊さんになりなさいと言われて勉強をし、修行をし続けてきましたが、自分は何者で、何ができるのか。ここにきて自分としっかり向き合うことができ、わかったことは「ありがたいと思うことが自分にとって一番大事だった」とうことでした。普通の生活をしていると気付けない。そう思うことで頑張りたいし、伝えたい。それが私の活動の原点、信仰の原点な気がします。

■教師とは「人を変えることができる人」

編集部)
ここ布教研修所のゴールは何ですか?

坂井上人)
布教研修所を修了すると布教専修師という資格が与えられます。それだけに毎年4月に厳しい選考試験があり、6月から11月までの半年間、約10名の研修員と共に学んでいきます。

今期の第56期は村井惇匡研修主任のご意向で、かなり厳しい選考だったと思います。選考試験は通常、筆記試験ですが今年は論文でした。課題文章に「介護殺人」。テーマは「日蓮聖人の生命観と救い」。手書きの論文を提出してもらったのは研修所始まって以来ではないでしょうか。

編集部)
村井先生のカリキュラムの特徴はどんなものですか?

坂井上人)
村井先生は「畑は冷たいほどよく育つ」という考え方で、法話の作り方、挨拶状の書き方など文章を厳しく指導されます。また、法話は数をこなすのではなく、中身をしっかり考える。すべてが「教師」の基本をたたき込むという感じでしょうか。「布教師」を育てる処では?と思われますが、「教師」となることが宗祖の教えを実践するものといえます。
また、村井先生は「教師」を花に例えられていました。花は自分のために咲くのではない。咲いた後に実ができて種をつくりまた芽が出る。循環を促していく。お寺は風景ではダメ。皆さんの日常生活の中に「教師」となる人がいて、その人に会いたい、話を聞きたい、手を握りたいとまで思ってもらわなければならない。そんな「教師」を育てたいのです。

ただし説き導く「教師」とはいえ、つねに「主伴」となることが大事だとも教えています。お互いがいつまでも教え、教えられる立場でいること。給仕し合う精神ですね。教える側はどこか「長」の気持ちがでてしまいますが、そうではなくて学び合うこと。その気づきも、この研修所で学んでほしいことのひとつです。

編集部)
研修生にはこの先、どのようなお坊さんとして巣立ってほしいですか?

坂井上人)
すべてに帰依できる人ですね。人にもモノにも帰依できるお坊さん。地域の中でも水となり、どんな場所にも溶け込んで、そこを清め、いのちの源となれる人。そんな仏教者を目指してほしいと思います。

編集部)
若い世代のお坊さんたちが素晴らしい教師となって布教活動をしてくれるのは未来が楽しみですね。本日はありがとうございました。

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