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いのちに合掌

対談

公開日時:2023/09/13

【対談】

「いのちに合掌」を語る

日蓮宗宗務院伝道部長 藤田 尚哉 布教方針推進部会 坂井 是真

僧侶檀信徒ワンチームで「いのちに合掌」の推進を

日蓮宗では「いのちに合掌」を大きな柱(布教方針)とし、「いのち」について僧侶檀信徒それぞれが考え、すべての「いのち」を敬うことを世の中にひろめていくことによって、より良い社会に結びつけていきたいと考えています。今回、日蓮宗宗務院の藤田尚哉伝道部長(62歳)と「いのちに合掌」を策定した布教方針推進部会の坂井是真師(49歳)に「いのち」と「合掌」について語ってもらいました。

藤田尚哉(62)
京都市勝光寺住職。日蓮宗宗務院 伝道部長。
加行所を五行成満。自坊では保育園を運営し、子どもの保育にも携わる

 

坂井是真(49)
福井県越前市妙智寺住職。布教方針推進部会。
妙智寺では、「鬼子母神弟子入発育祈祷会」を開催し、地域の子どもと触れ合っている

 

すべてのいのちを仏さまの子とする
日蓮宗が「いのち」を伝え続けなければ

藤田部長=「いのちに合掌」という言葉は平成19年度から令和3年度まで行われていた宗門運動「立正安国・お題目結縁運動」のスローガンでした。まずこのスローガンが、日蓮宗の布教方針のテーマとなった経緯を説明してください。

坂井師=宗門運動が無事に期間を終え、続く布教方針について全国の関係僧侶にアンケートを取ったところ、「〝いのちに合掌〟はいろいろな場面で使われてきたことから徐々にひろまりつつあった。良い言葉なので継続してほしい」という声が多数あがってきました。推進部会としても社会に浸透しやすい言葉を求めていたことや、単発的ではなく長期的なメッセージとしても響きもよく確かに有効なのではないかと考えました。

藤田部長=宗門運動のスローガンとして、そして今回の布教方針として言葉は同じですが違いは何かありますか?

坂井師=平成19年の宗門運動が始まったときに、すでに「いのちに合掌」のスローガンがありました。「合掌」はもちろん法華経の20番目の章「常不軽菩薩品」に説かれる不軽菩薩が石を投げつけられても相手のなかにある仏さまを見て合掌して礼拝した「但行礼拝」の精神が表されていたんですが、合掌する相手の「いのち」についてまでは触れられていませんでした。今回の布教方針では、合掌する対象、つまり人はもちろん動物や植物、自然環境まで含めた「〝いのち〟とは?」、というところから改めてみんなで考えていきたいと思っています。

藤田部長=私たち僧侶は多くの人の死に関わっているため、いのちへの合掌の想いはいつも痛感しています。また僧侶でなくてもウクライナでの戦争やトルコを中心とした地震、日本での殺人や自死、事故などで、人が亡くなれば「いのちが失われたことで心が痛む」と思います。だけれども普段の生活のなかで「いのち」を意識することは少ないですよね。食事のときの「いただきます」も、「いのちをいただきます」なんですが、実際には魚だったり、動物だったり、野菜だったりといういのちや生産者、運搬者、販売者などと具体的に思い浮かべているわけではありません。どちらかというと料理してくれた人へ「いただきます=ありがとう」と伝えている側面が強いかもしれません。本当は関わる「いのち」すべてに心からの感謝、合掌をしなければいけません。

坂井師=そうですね。「いのちに合掌」と宗門がいう限り、「いのち」を常に意識してもらえるようになってほしいです。なので、「いのち」の社会的な観念はもちろん、日蓮宗として仏教、法華経、日蓮聖人の教えなどの視点から「いのち」を考えなければならないと思います。

藤田部長=日蓮聖人のご遺文にも有名な「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」とあります。しかし、残念なことに過去も現代も一部の為政者や個人が誰かの「いのち」を脅かすことがあります。日蓮宗では人や動物だけではなく、植物や土など、世の中にあるものすべてが仏性を持っているため、いうなればそのすべてが仏さまの子としての「いのち」と捉えます。そういう教えを持つ日蓮宗が率先して「いのち」とは何かを問い続け、そして「いのち」の尊さを訴えていかなければなりません。

 

「いのちに合掌」は「いのちに寄り添う」
この文字を見て皆に気づいてほしい

坂井師=当然、世の中の人、みんな「いのちは大事」だと思っているんです。地震で多くの人が亡くなって可哀想だとみんな思います。昔から変わっていないでしょう。だけれども、「いのち」は亡くなった時や生まれたときに強烈に感じる「いのち」だけではありません。同じように重要なのが、「生きているいのち」です。それは「営み」ともいえます。バランス良く我々が生きていけるのは、すべてのいのちと連なり、支え合い、活かし合い調和しているからです。でも、人によっては「いのち」のバランスが崩れている人もいます。病気だったり、生活に困窮していたり、いじめに遭って苦しんでいたり、引きこもりもそうです。そういった「いのち」が削られている状態の人たちにいかに「寄り添うか」「寄り添えるのか」も「いのちに合掌」だと思います。

藤田部長=大きな事件が起きると、加害者側の家族構成だったり、学歴や過去をメディアは探り出し、「ほら、こういう家庭環境だったから、事件が起こったんだ」と人を批評し始めます。もちろん何も起きていない段階で、他人の家庭に首を突っ込むわけにはいかないですが、檀家制度を利用して、地域のネットワークみたいなものができないかな、とも思うんです。つまり困っている人がいるとか、悩んでいる人がいるとかを教えてくれるネットワークです。なかなか現代では難しいんでしょうが。

坂井師=自坊(自分のお寺のこと)では子どもの発育や地域のコミュニケーションを目的に鬼子母神さまに弟子入りするという行事を行っています。ここで大事にするのは信仰心もその1つですが、1人ひとりとのつながりです。いつか生きることに悩んだり、辛くなったりしたときに鬼子母神さまと僧侶の私を頼ってくれたり、紹介してくれればとも考えています。そうすれば削られるいのちを救うことができるはずだと信じているんです。

藤田部長=お寺さんによっては、コロナ禍で殺伐としたときに檀家総代、檀信徒と相談して感冒除けのお守りやマスクを配るという組織的な活動を行ったという話も聞いています。それが安心につながれば、それもまた削られるいのちを守ることにつながっているかもしれません。いろんな活動が「いのちに合掌」なのかなと改めて感じます。そういう観点からすれば、「いのちに合掌」ではなく、「いのちに寄り添う」の方がわかりやすいかもしれませんが、やはり仏教者として日蓮宗の教えをミックスさせた「いのちに合掌」という言葉がピッタリではないでしょうか。

坂井師=私もそう思います。また仏教者としてはそういった横のつながりへの合掌とさらには縦のつながり、つまりご先祖さまへの合掌も当然つなげていかなくてはなりません。もちろんご先祖さまも当時に横のつながりがあって生きていました。お経にガンジス川のとてつもない砂の数を表す「恒河沙」という単位がありますが、横と縦のいのちがつながってきた数はまさしくその単位なのかなと思います。ちょっと想像できない数なんですけど、自分のいのちの成り立ちとしてそれを想像することが大事だと思うんです。自分のいのちがとてつもないいのちの数のおかげで久遠の昔からつながれてきたありがたい「いのち」だと。そう感じて「自分のいのちに合掌」も同時に意識してもらうことで、「自分のいのちが傷つけられたら嫌だ。だから他人も同じなんだ」ということにもつながると思うんです。

藤田部長=たしかに自分の「いのち」を認識することは、自分が健康的なときはないですよね。でも例えば「胃が痛い」だとか、「肺が苦しい」というようないのちが脅かされるような症状を感じたときには自分の「いのち」を意識すると思います。でもそういう時以外は自分の「いのち」を顧みない。だからいのちの大切さがわからない。もちろん多くの人が、いのちの大切さをわかっていて、他人を傷つけないという社会が構成されているんですけど、やはり傷つけてしまう人はいる。

坂井師=太古から人間は殺傷事件を起こし、誰かを精神的に追い詰めることをしてきました。現代ではさらに匿名性を持つSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で人を傷つける人がでてきました。それによって追い込まれた人が自死することも増えています。新たないじめという見方もできるでしょうが、同じクラスや学校、塾などと、実体としてのいじめだったものが、直接知らない人にも言葉で攻撃するようになった。不謹慎な言い方ですが、テレビゲームのHP(ヒットポイント)やLP(ライフポイント)のようにちょっとずつポイントを削り、0(ゼロ)になるまで追い込む。いじめもSNSでの追い込みも同じ。もしそういう追い込む側の人が日蓮宗の「いのちに合掌」という言葉だけでも町や寺院で見て、どういうことかと少しでも考えてもらえたら、と願います。本当はそういう傷つける側すべての人にいのちの大切さを伝えられなければいけないんですが、発見、特定も難しいのが現状です。だからこそ檀家や町のネットワークが必要なんですが。

藤田部長=さっきも言いましたが、表面的に浮かび上がってきた事件の背景から人はああだ、こうだと言い、分析をはじめて「だからいのちは大事なんだ」と言ってしまいがちなんですが、やっぱり構造自体を変えていかなければならないと思うんです。例えば、食べることが充足していれば犯罪には走りにくいということです。もちろんそれ以上の欲望を持つことも人なんですが、そこは仏教の出番で説き続けることはできます。食に関しては、日蓮宗でも子ども食堂を運営している寺院や、日蓮宗あんのん基金での協力もありますがそれでは全然足りなく、そもそも根本的に解決できる力があるのは政治です。じゃあ政治家だけの仕事か、というとそうではなくて、日蓮聖人が鎌倉幕府に「国民のための政治を」と訴えられたのと同じく提言していかないといけないのではないかと。政教分離の原則はもちろん守らなければなりませんが、国民が幸せに生きていくというものの1つは構造の問題です。もともと私たち日蓮宗の僧侶檀信徒は「法華経を基とした考え」を持っているのですから、出発点としてそこがある限り、揺るがない。構造自体を訴えていくのも「いのちに合掌」の1つにしていかないといけない、と個人的には思います。

坂井師=話は変わりますが、日蓮聖人は「我深敬汝等」から始まる常不軽菩薩品の24字はお題目「南無妙法蓮華経」と同じとご遺文に書かれています。でも日蓮聖人のお姿を思い浮かべると清澄寺(千葉県鴨川市大本山)の旭が森の聖人銅像は合掌していますが、ほかの聖人像はどちらかというと経巻、もしくは『立正安国論』を握られている姿を思い浮かべます。日蓮聖人が合掌をしているイメージがあまりないんですが。また日蓮聖人が合掌されているイメージがあるのは船の舳先に立たれていたり、伊豆法難で俎岩に取り残されたときでしょうか。どちらかというと奇跡を起こすために合掌してお題目を唱える姿のイメージが強いです。でも弟子、信徒に宛てたお手紙には、その人たちに寄り添われていらっしゃる日蓮聖人の姿が浮かびます。きっと寄り添う気持ちで合掌されることが本当は多かったのではないかと、個人的には想像してしまいます。

藤田部長=特徴的なのは、日蓮宗寺院の須弥壇の仏像ですが、題目宝塔があってその両脇のお釈迦さま、多宝如来、四菩薩の多くが合掌されています。唯一、日蓮聖人が合掌せずに桧扇と経巻を持たれています。ある人が言うには、諸仏諸菩薩の合掌の下で日蓮聖人が行動されている姿だと。つまり使命を受けて我々の下に降りて、救おう、寄り添おうとされている動的な日蓮聖人というわけです。たしかに日蓮聖人も合掌されている方が、今私たちが布教の基本方針としている「いのちに合掌」のテーマに合うのですが、今、その場にいる人を救うための姿という解釈は、心強くも思いますし、もちろん手本とするところです。

坂井師=以前も布教方針として〝合掌〟を推進していました。これはどんなところでも実際に相手に合掌しましょうというものでした。こちらが袈裟と衣をつけたお坊さんの姿をするお寺などの場所では合掌を必ずしますが、例えば買い物したときに店員さんに合掌するということはまずありません。普段着ではなかなか難しい。〝いただきます〟の合掌やご先祖さまや仏壇への合掌はするとは思いますが、ほかの生活上で合掌をする機会はありません。なので店先でいきなり合掌すると相手は警戒します。〝合掌〟〝合掌〟と我々が叫んでも、自分を省みると生活の上で実際に合掌をしていることはないので、言っていることとやっていることの乖離から「いのちに合掌」の実践が自分にできているのかと思うことも多いかもしれません。

藤田部長=それは私も感じます。東南アジアのタイは挨拶も合掌なので、年配の人でも若い人でも合掌をすると合掌を返してくれますし、もちろん向こうから合掌してきてくれます。社会に合掌が定着しているからです。日本と同じくタイも仏教が国教ではないのですが、仏教的習慣が根付いています。今回の「いのちに合掌」は長期スパンでの布教方針としています。この方針が長い年月を経て成熟したときには、ひょっとしたらタイの人たちのように日本も合掌し合う文化が根付いているかもしれません。もちろん難しいかもしれませんが、でもそういったことを目標というか、想像することがまず大事だと思います。本当に誰もがお互いに合掌し合っている姿を想像すると、まさしく「いのちに合掌」=「安穏な社会」、いわゆる「仏国土」です。

坂井師=さきほど藤田部長の「いのちに合掌」は「いのちに寄り添う」ことという話ですが、ある団体が行った『僧侶に教えてほしいこと』の意識調査で6割を占めたのが「生き方」だそうです。生き方はまさしく「いのち」を輝かせることです。日蓮聖人の人びとの代わりに苦悩を自分が背負う〝代受苦〟、つまり人びとの苦悩に寄り添われた生き方を鑑みれば、逆を言うと「他のもののいのちを削る側の生き方をしない」という教えを示唆することが現代では大事だと感じています。また社会構造を変えるという話は抜本的な解決になるかもしれませんが、現実的には難しい面もあると思います。「いのち」が少しでも削られる前に仏教や法華経、日蓮聖人の教えをもとに人としての「生き方」を示すことこそが必要だと感じています。「いのちに合掌」を浸透させていくためには、僧侶檀信徒がワンチームの意識を持たなければ成就できないと思います。

藤田部長=布教方針という名だけれども、いうなればこれは日蓮宗の合言葉です。もっと言うと共通認識、共通理念です。もちろん日蓮宗のさまざまな教えを自分の信仰の柱にしている人も多いでしょう。それは素晴らしいことです。でももう1本の柱としてこの「いのちに合掌」を立ててほしいです。宗門的に言いますと異体同心なんですが、いうなれば異体同識や異体同念にならなければ、本当の異体同心は難しいと思います。坂井師が言うようにワンチームの意識がないと「いのちに合掌」を社会に浸透させることはできません。今一度、宗門の布教方針である「いのちに合掌」についてそれぞれが考察を深めていただきたいと思います。

(日蓮宗新聞 令和5年4月1日号 掲載)

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