第2章
●人類皆平等
方便品
【ほうべんぽん】
法華経の序章、序品(じょほん)でお釈迦さまは一言も発せられず、無量義処三昧(むりょうぎしょざんまい)という瞑想に入っておられた。ところが、第2章「方便品」の冒頭部で、侍者の阿難(あなん)ではなく舎利弗(しゃりほつ)に発せられた第一声は、
所不能知(知る能わざる所なり)
意趣難解(意趣、解ること難ければなり)
というものであった。舎利弗をはじめ周りにいた人々は驚き、がっかりしたに違いない。仏の智慧ははかり知れず、理解することも、その門に入ることも困難だといわれた。謂わば「ショック療法」ともいうべき言葉であった。
この言にこそタイトルである「方便」という意が含まれている。お釈迦さまはこの法華経以外の経典で様々な人に、様々な教え、「方便」を説いてこられた。殊に三乗*1への差別的教えをくつがえし、皆が「一仏乗(いちぶつじょう)」*2へと帰入(きにゅう)することが出来る、「人類皆平等」という誠の教え、真実の教えが説かれる。それは「難解(なんげ)」である、「覚悟して理解せよ」といわれたのである。
法華経は28章からなり、前半14章の迹門(しゃくもん)と後半14章の本門(ほんもん)から構成されている。前半の中心となるのが、この方便品であり、その教えには主に次のようなものがある。
・諸法実相(しょほうじっそう)*3
・十如是(じゅうにょぜ)*4
・一大事因縁(いちだいじいんねん)
・開三顕一(かいさんけんいつ)
諸法実相
仏の成就せる所は、第一の希有なる難解の法にして、唯、仏と仏とのみ、乃ち能く、諸法の実相を究め尽せばなり。
仏さまが到達した悟りの世界とは、崇高で希(まれ)なものである。ただ仏と仏とのみがわかり、あい通じることができる。それを「諸法実相」の境界(きょうがい)という。
近代日蓮教学の権威であった茂田井教亨(もたいきょうこう)先生はしばしば次のようなことを語った。
迹門を一言で表わすと、「与(よ)」の世界。本門を一言で表わすと「及(ぎゅう)」の世界である。つまり、迹門では「仏と仏と」の個個別別の修行の世界が説かれるが、本門に至ると「仏及大衆」という仏が私たちを包摂して悟りへと導いて下さる世界となる、その違いを、端的に表現すると、「与」と「及」になる。
「諸法」とは、ものの全ての存在であり、「実相」とは、真実のすがたをいう。従って、「諸法実相」とは「全ての存在のありのままのすがた」を観ることをいう。その世界は、仏のみぞ知るということである。
十如是
謂う所は、諸法の是(か)くの如(ごと)きの相(そう)と、是くの如きの性(しょう)と、是くの如きの体(たい)と、是くの如きの力(りき)と、是くの如きの作(さ)と、是くの如きの因(いん)と、是くの如きの縁(えん)と、是くの如きの果(か)と、是くの如きの報(ほう)と、是くの如きの本末究竟等(ほんまつくきょうとう)となり。
「実相」というすがたを推しはかる諸法についてあらゆる存在は、十の構成要素〈十如是〉から成り立つ。即ち、相〈すがた〉・性〈性質〉・体〈本体〉・力〈能力〉・作〈はたらき〉・因〈原因〉。縁〈間接的原因〉・果〈結果〉・報〈間接的結果〉・本末究竟等である。それが互いに関連し、緊密に繋がり合う有機的関係にあるという。そのすがたをありのままに観るのが仏さまだということになる。
一大事因縁
最も大事なことを一大事といい、それがどのような関わりを持っているかということを因縁という。更に法華経的に言及しますと、お釈迦さまと私たちの関係にあって、私たちに最も大事なこと、人は何故生きているのかを教え導く目的を持った方だというのである。そのような大いなる縁があるという。
正に、お釈迦さまは「仏知見(ぶっちけん)」を「開(ひらく)」「示(しめす)」「悟(さとらす)」「入(いらしめる)」という四段階をもって、仏の知見の境界へと人々を導くためにこの世に出現されたというのである。このお釈迦さまの大慈悲心は如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六の末文にある「毎自作是念〈常に自らこの念をなす〉」にも通じる言葉である。
開三顕一
三を開いて一を顕す、つまり、法華経は三乗となるのを目的として説かれるのではなく、一仏乗、全ての人々を仏に導くために説かれた経典である。この語句に法華経の「人皆平等」の大精神が明示されているといっても過言ではない。開三顕一、「三乗を開いて、一仏乗を顕す」は方便品第二から授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)第九に至る八品で説き示され、それを三周説法(さんしゅうせっぽう)*5、
というさまざまな論法によって繰り返し繰り返し明かされている。
方便品の開三顕一と「一念三千(いちねんさんぜん)の法門」の様相について日蓮聖人は面白い表現をされている。
法華経の方便品で「略して三乗を開いて一乗を顕わす」ことが説かれる時に、お釈迦さまは、簡潔に要約して釈尊の御本意である一念三千の法門を述べられた。けれども、まだ初めてのことであったので、ほととぎすの声音(こわね)を眠け眼の人が一声だけ聞いたようなもの、月が山陰から半分姿を現わしているのに、うす雲が月を覆っているように微かな光をただよわしているようなものであった。*6
注釈
*1
声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)をいう。
乗とは仏の教えを乗物にたとえ、その教法に乗じて迷の地より悟りの境に運ばれる意である。
*2
仏の世界
*3
日本曹洞禅(そうとうぜん)の創始者である道元禅師(どうげんぜんじ)〈1200〜53〉は、『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)に「諸法実相」〈第四三〉の巻をもうけ、この世の全ての存在や日常生活そのものに、あるがままのすがた、真実のすがたの実現を「只管打座(しかんたざ)」の世界に求めた。
*4
十如是について、具体的な例を水にあてはめてみると、水は液体というすがた〈相〉をし、火を消したりものを冷やしたり温めたりする性質〈性〉を持ち、水蒸気になったり氷という固体〈体〉になったりする。そして、水は生きとし生けるものを育くみ〈力〉、電気をおこすはたらき〈作〉をもする。また、水は水素と酸素から成り〈因〉、媒介となるもの〔〈縁〉燃焼や電気の力〕によって、水という結果〈果・報〉が生じる。
このように、あらゆる存在のうちのひとつ、水を例にあげても十如是というカテゴリーに配当することができる。
*5
法説周(ほっせっしゅう)・・・法をストレートに説く
譬喩周(ひゆしゅう)・・・法を譬えによって説く
因縁周(いんねんしゅう)・・・法を因縁によって説く
*6
『開目抄』昭和定本日蓮聖人遺文569頁 文永9年〈1272〉2月