第6章
●仏となる
授記品
【じゅきほん】
摩訶迦葉(まかかしょう)・須菩提(しゅぼだい)・迦旃延(かせんねん)・目連(もくれん)の4人の弟子たちにも、いよいよその時がやってきました。
「開三顕一」の教えの内容を、お釈迦さまが譬喩を用いて説かれ〈第3章譬喩品〉、それを聞いたお弟子が自らの理解を述べ〈第4章信解品〉、そしてお釈迦さまがそれを認め、さらにその内容を補われました〈第5章薬草喩品〉。そして、成仏の保証である「授記」がなされていく、この授記段(じゅきだん)が、第6章授記品(じゅきほん)です。
みなが仏となることを、譬え話によって説かれてきた、お釈迦さまの一連の説法が、ここで一つのゴールを迎えることとなります。
“仏となる”という予言
まず、摩訶迦葉に対して、未来世において「光明(こうみょう)如来」となるという授記がなされます。そしてさらに、須菩提は「名相(みょうそう)如来」、迦旃延は「閻浮那提金光(えんぶなだいこんこう)如来」、目連は「多摩羅跋栴檀香(たまらばせんだんこう)如来」となることが明らかにされます。それぞれ4人のお弟子たちに、こういう仏となるという、仏としての名が与えられるとともに、その時代の名称、その世界の名、仏の浄土の相(すがた)、寿命なども詳細に説かれていきます。
最初に授記がなされた迦葉の世界は「光徳(こうとく)」、その時代は「大荘厳(だいしょうごん)」といわれ、須菩提の時代は「有宝(うほう)」、世界は「宝生(ほうしょう)」と名づけられています。仏さまの住む世界は、浄らかな光に包まれ、きらびやかに荘厳された、まさに「浄土」であることが示されているのです。
貧しき国から宝の山へ
ここで授記を受けた摩訶迦葉ら4人は、非常に優れたお釈迦さまのお弟子でしたが、お釈迦さまが教えを説かれてから、法華経に至るまでの40余年の間、永久に仏となることができない者〈「永不成仏(ようふじょうぶつ)」〉とされてきました。それが、法華経の良薬をなめ、はじめて仏となる道が開かれたのでした。
法華経は、すべてのものを救う教えであり、最も救われがたいとされてきた仏弟子・二乗の成仏は、法華経の円満なる教えを象徴し、すべてのものの成仏を保証する意味をもつものともなります。
日蓮聖人は、法華経が説かれる以前の教え〈「爾前(にぜん)経」〉と法華経の教えを対比して、爾前経は貧しき国、餓鬼のように飢えた人、法華経は宝の山であり、豊かな者であると示され、それは、この授記品に、「飢えたる国より来(きたつ)て忽(たちま)ちに大王の膳(ぜん)に値(あ)えるがごとし」とある通りだ、と説かれています*1。
この授記品の言葉は、目連、須菩提等のお弟子が自らの心情を吐露したものでありますが、法華経における授記がいかにありがたいものであるかが、ここに強調されているのです。
仏となることの大切さ
この授記品の一節
「如以甘露灑(にょいかんろしゃ) 除熱得清凉(じょねっとくしょうりょう)
如従飢国来(にょじゅうけこくらい) 忽遇大王膳(こつぐだいおうぜん)」
は、お施餓鬼の際にも読まれる大切な言葉であり、ここで授記を受けた目連尊者のお名前は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
お盆の行事は、この目連尊者が、餓鬼の世界におちて苦しんでいる母を救ったことからおきたものであります。ただ、「神通第一(じんずうだいいち)」と称され、不思議な神通力を使うことを得意としてきた目連尊者であっても、この自分の力では、いくら母を救おうと努力してもそれが叶いませんでした。
では、どうして救うことができなかったのでしょうか。
日蓮聖人は、このように説かれています。
「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや。しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて…南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。この時こそ父母も仏になり給へ。…目連が色心は父母の遺体なり。目連が色心仏になりしかば、父母の身もまた仏になりぬ。」〈『盂蘭盆御書』*2〉
自分自身が仏とならないうちは、自分を生んでくれた父母さえも救うことができない。法華経の教え、お題目の教えによって、まず自分が仏となって、はじめて父母を救うことができるのであると、何よりもまず先に自分が仏となることの重要性が示されているのです。
この第6章授記品で授記を受けた仏弟子も、自分が仏となって、ここから、本当の仏としての働き、振る舞いがスタートしていくこととなるのです。
注釈
*1 『薬王品得意鈔』昭和定本日蓮聖人遺文340~341頁
*2 『盂蘭盆御書』昭和定本日蓮聖人遺文1774頁