第18章
●喜びすなおに信じる功徳
随喜功徳品
【ずいきくどくほん】
“自我偈(じがげ)”を中心としたお釈迦さまの教えを聞いて、こころからすなおに喜ぶこと、これを前17章分別功徳品(ふんべつくどくほん)では、“随喜品(ずいきほん)”または“初随喜(しょずいき)の位(くらい)”と呼び、法華経を修行する私たち初心の者にとって、特に重要となる段階であることが説かれました。
重要なことは、お釈迦さまも、日蓮聖人も、一度だけでなく、言葉を変え、表現を変えながら、その内容を繰り返し説かれていきます。
「随喜功徳」というタイトルに象徴されるように、久遠のお釈迦さまの教えを、喜びのこころをもってすなおに信じることの功徳が、どれほど大きなものであるか、その功徳の大きさを説かれていく、これが第18章随喜功徳品です。
“随喜”のこころの重要性は、これまでも度々強調されてきましたが、やはり、私たちの信仰において何よりも大切なもの。したがって、ここでも、特別に1章を設け、その功徳を、お釈迦さまは丁寧に示されていきます。
法華経を聞いて喜ぶ功徳~五十展転(ごじゅうてんでん)の随喜~
「お釈迦さまの入滅の後に、法華経を聞いて喜びのこころをもった人は、どのような功徳が得られるのでしょうか。」
この弥勒(みろく)菩薩の問いから、この章は始まります。
この問いに対して、お釈迦さまは、“五十展転の随喜”という事例を挙げて答えられていきます。
はじめ、あるところで、法華経の教えを聞き、ありがたいと喜びのこころをもった人が、その感激を他の人に語ります。これを聞いてまたその人が、尊い話を聞いたと喜び、別の人にその内容を伝えます。こうして、二番目、三番目、四番目と、次の人から次の人へと伝えられ*1、第五十番目の人にやってきたとき、その信解(しんげ)の内容も、喜びのほども、かなり薄められてくるでしょう。
このような第五十番目の人が、その教えを聞いて喜びのこころを起こした功徳は、どれほどのものになるでしょうか。
お釈迦さまは、この功徳がいかに大きいかを表すため、次のような布施の功徳と対比されます。
広大な世界の、人間はもとより、鳥やけもの、昆虫や魚などの生きものすべてに、その求めに応じてあらゆるものを施すこと八十年。さらに死後の永き輪廻の苦しみをあわれんで法*2を説き、阿羅漢(あらかん)という悟りの位に導いたとします。
このような八十年間にわたる多くの布施と、教えを説き人びとを導いた、その人の功徳は、はかりしれない大きなものと思われるでしょう。
しかし、この功徳と、第五十番目の人の随喜の功徳とを比べると、随喜の功徳は、百倍、千倍、万倍をはるかに超え、数えることも譬えることもできないほど大きなものとなるのです。
まして、最初にこの法華経の教えを直接聞き、こころからありがたいと喜んだ人の功徳は、無量無辺にして、まったく比較にもならない、莫大なものとなります。
さらに、一心に法華経を聞き、読み、人びとのために説き、教えに説かれる通りに修行する功徳は、よりいっそう大きなものとなっていくのです。
法華経の功徳の大きさ
このように、法華経の教えをわずかであっても聞いてすなおに信じ、喜びのこころを起こすだけで、そこには、はかりしれない功徳があります。
日蓮聖人は、ここに、私たちの成仏をみておられますが、なぜ、私たちのような末法の衆生が、喜びのこころをもって法華経・お題目を信じるだけで、仏となることができるのでしょうか。
それは、お釈迦さまが大きな慈悲のこころをおこして、久遠のはるか昔から修行し、また多くの者を救ってきた、その功徳すべてを、このお題目に込められているからに他なりません。
だからこそ、お釈迦さまのこころを聞いて、ありがたいと喜び、すなおに信じてお題目の良薬を服(の)むことで、おのずとお釈迦さまの功徳全体を受け取ることができるのです。
注釈
*1 「展転」とは、このように、次から次へと伝わっていくことを意味しています。
*2 ここでいう「法」とは、法華経以外の教えを指しています。