ざっくり納得法華経のすべて

第15章

秘策の切り札“秘蔵の本弟子”登場

従地涌出品

【じゅうじゆじゅっぽん】

お釈迦さまの滅後、この娑婆世界において法華経を弘めよ、というお釈迦さまの要請に応え、第13章勧持品(かんじほん)で誓いを立てた二万及び八十万億那由他(なゆた)の菩薩には、文殊(もんじゅ)菩薩のとりなしで、彼らにできる安楽行が示されました。そこで今度は、他方の世界からやって来た、八恒河沙*1(ごうがしゃ)を超える数の菩薩が、この娑婆世界における弘経を願い出ます。

すると、お釈迦さまはこれを制止して、御自身の本弟子がいることを宣言されるや、大地が震裂(しんれつ)して、一時に六万恒河沙の高貴なる大菩薩が地より涌(わ)き出ました。ついに、お釈迦さま滅後末法において法華経を弘める大任を担っていく“末法の唱導師”が登場する、これがこの第15章従地涌出品となります。

お釈迦さまとこの菩薩の関係から、お釈迦さまの本当のお姿(本地久遠 ほんじくおん)が明かされる、次の第16章如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)のプロローグとなる章でもあります。

“地涌(じゆ)の菩薩”の登場
地より涌き出てきた“地涌の菩薩”。

この菩薩一人一人が、金色(こんじき)に輝き、仏さまと同じ三十二相をそなえ、無量の光明を放っています。

みな、この娑婆世界の下方にある虚空(こくう)におり、お釈迦さまのお声を聞いて出現されました。多くの菩薩の筆頭として、上行(じょうぎょう)菩薩、無辺行(むへんぎょう)菩薩、浄行(じょうぎょう)菩薩、安立行(あんりゅうぎょう)菩薩という、四人の導師・唱導の師がおられます。

その高貴さ、尊厳さ、その数の莫大さ、またお釈迦さまにも親密に、恭敬(くぎょう)の態度で接せられている様をみて、一会の大衆は大いに驚動(きょうどう)します。

弥勒菩薩をはじめとする一会の大衆の疑問
お釈迦さまから授記(じゅき)され、次に仏となる弥勒(みろく)菩薩。この弥勒菩薩をしても、この地涌の大菩薩には、一人も知る人はおりません。

そんないまだかつて見たこともない菩薩方であっても、一見してただちに、清浄な身体をもち、自由自在な神通の力、大いなる智慧の力、堅固な志といかなる大難にも耐え忍ぶことのできる力をそなえ、一心に仏道を求め、常に精進している大威徳(だいいとく)の大菩薩であることがわかるのです。

この菩薩方は、一体、誰に教え導かれ、どんな教えを学び、修行を積んでこられたのでしょうか。これは弥勒一人の疑問ではなく、みなの疑問でありますと、お釈迦さまに尋ねられました。

秘蔵の本弟子

「能(よ)く仏に是(かく)の如き大事を問へり。汝等まさに共に一心に精進の鎧(よろい)をき、堅固の意(こころ)を発(おこ)すべし。」

これが、弥勒からの質問を受けたお釈迦さまの第一声です。これからいまだかつて聞いたことのない、重大な真実を明かす。一心に、精進して、堅固なる信心をもって、決して疑いの心を抱いてはならないと、強く誡められます*2。

そして、ここで明かされた真実が、この大菩薩たちは、お釈迦さまが久遠の昔から教え導いてきた“我が弟子” “我が子”であるということ。

はるかはるか昔から、この娑婆世界の下の虚空において、お釈迦さまの教えを学び、昼夜にわたって常に精進してきた、“秘蔵の本弟子”であるとおっしゃるのです。

深まる疑惑
なぜ、お釈迦さまはこれだけわずかな間に、これほど多くの大菩薩たちを教化して、悟りに導くことができたのか?

お釈迦さまは、仏となって、まだ四十余年しか経っていないではないか!

これはあたかも、25歳の青年が100歳の老人を指して「これは我が子である」といい、100歳の老人が25歳の青年を指して「これは我が父である。私を育ててくれたのだ」というようなもので、とても信じ難いことである。

今のお釈迦さまのお言葉はまったくこれと同じで、一心に信ぜよと言われても、大衆の疑惑はますます深まっていきます。

そこで、この疑惑を受け、その答えが、次章如来寿量品で明らかにされることとなります。

日蓮聖人の自覚
これまで、お釈迦さまの要請に起ち上がり、数々の菩薩が誓いを立ててきましたが、それらをすべて退けられ、“秘策の切札”がここで出されました。

それは、この地涌の菩薩こそ、「三類の強敵(ごうてき)」による大難にもよく耐え忍び、お釈迦さまの悲願を受け継ぎ、それを実現していく力があるからに他なりません。

「善(よ)く菩薩の道を学して、世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」

これは、弥勒菩薩が、地涌の菩薩の徳を讃歎した一文です。この章では、地涌の菩薩がいかなる菩薩であるか、どのような修行を積んでこられたか、その詳細が説かれておりますが、とりわけ、この一文に注目されたのが、我が宗祖日蓮聖人でありました。

泥の中にありながら、美しく浄(きよ)らかな華を咲かせる蓮華。その蓮華のように、地涌の菩薩も、末法という濁り乱れた悪しき世の中にあって、決してそれに染まることなく、常に浄らかに、その使命を全うしていくのです。

ここから一字を取り、その使命と覚悟と自覚をもって、日蓮聖人はたち上がられたのでした。

 

注釈

*1 恒河沙:インドのガンジス河の砂の数。八恒河沙はこの八倍の数。幾億兆あるか分らない、仏教で巨大数の単位のように使われています。この後に出てくる六万恒河沙は、それを六万倍した無量の菩薩となります。

*2 これは法華経を聞くとき・読むときに、常に求められている態度であります。もちろん日蓮聖人の教え(ご遺文)にも。この心で拝読・拝聴するとき、大いなる感銘を受けずにはいられないでしょう。

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