第5章
●慈悲のこころ
薬草喩品
【やくそうゆほん】
第4章信解品における4人の仏弟子の領解(りょうげ)を聞いて、お釈迦さまはそれをほめたたえ、お認めになりました。そして、その内容を重ねてたとえ話しをもって説かれ、さらに一段と深められていきます。
「開三顕一」の内容が、第3章譬喩品では「三車火宅の喩え」、第4章信解品では「長者窮子の喩え」として説かれてきましたが、信解品における四大弟子の理解を受けて、お釈迦さまが今一度たとえを用いてその内容を補われていく、この述成段(じゅつじょうだん)が、第5章薬草喩品(やくそうゆほん)となります。
三草二木(さんそうにもく)の喩え*1
このすべての世界の山や川や谷などの地には、いろいろな草や木が生い茂っており、その種類は多く、名前も姿もそれぞれ異なっています。
そこに空いっぱいに雲が広がり、雨を降らします。
その雨は平等にあまねく降りそそぎ、草木を潤しますが、草にも大、中、小、それぞれの異なりがあり〈三草〉、木にも大きな木、小さな木〈二木〉があります。みなそれぞれの大きさにしたがって潤い、生長し、花を咲かせ、実を結びます。
これらの草や木は、同じ一つの大地に生え、一つの雨の潤すところでありますが、同じ雨を受けても、草木はそれぞれの大きさや性質によって異なりがみられるのです。
この三草二木は、いずれも仏さまの教えを受けるひとびと〈衆生〉をたとえられたもので*2 、この草木にあまねく降りそそぐ平等の雨が、一乗の教え、すなわち、すべての者が仏になる教えを指しています。仏さまがこの世に出現されることが、大雲がわき起こると表現され、大きな雲があまねく全世界を覆うように、仏さまの慈悲のこころが全世界のひとびとを覆い尽くし、等しく一切を仏となす教えがそそがれていくのです。
「未(いま)だ度(ど)せざる者をば度せしめん 未だ解(げ)せざる者をば解せしめん 未だ安(あん)ぜざる者をば安ぜしめん 未だ涅槃せざる者をば涅槃を得せしめん」
日蓮宗において「発願(ほつがん)」としても読まれるこの一句は、薬草喩品において、仏さまが教えを説かれるそのこころを大衆に向かって宣言されたものであります。
仏さまの教えは、一味の雨がすべての草木に降りそそぐように、常にこのこころをもって、すべての者に対して平等に差し向けられております。しかし、それを受ける衆生の側は、それぞれの性質や境遇などに応じて仏さまの教えを受けとり理解するため、さまざまな異なりが生じていくのです。
仏さまの教えは、このような衆生の立場をすべて知り尽くされており、それぞれの衆生のこころをよく観察され、種々に法を説かれましたが、その根底にある想いは、こうなのだと、自らの化導のこころを明かされたのでした。
慈悲のこころ
「我れ一切を観(み)ること、普(あまね)くみな平等にして、彼此(ひし)、愛憎(あいぞう)の心あることなし。我れ貪著(とんじゃく)なく、また限礙(げんげ)なし。恒(つね)に一切のために、平等に法を説く。一人のためにするが如く、衆多もまた然(しか)なり。」
第4章信解品では、仏弟子の理解として、釈尊一代教化の次第、御意図が説かれましたが、薬草喩品では、お釈迦さま自らが、すべての衆生に対して、わけへだてなくみな平等に慈愛の念をそそがれていることが強調されています。
お釈迦さまが、衆生のこころに応じて方便の教えを示されたのは、“みなを仏となす”という、大きな慈悲のこころから出たものでした*3。
この“あらゆる者を仏となす”というお釈迦さまの慈悲のこころが、「悉当成仏(しっとうじょうぶつ)」「悉(ことごと)く当(まさ)に成仏すべし」という薬草喩品の結びの言葉にも象徴されているのです。
注釈
*1 法華経に説かれる譬えの中で、「法華七喩(ほっけしちゆ)」に数えられるたとえ話の第三番。
法華七喩
譬喩品第三―――――三車火宅(さんしゃかたく)の喩え
信解品第四―――――長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え
薬草喩品第五――――三草二木(さんそうにもく)の喩え
化城喩品第七――――化城宝処(けじょうほうしょ)の喩え
五百弟子受記品第八―衣裏繋珠(えりけいじゅ)の喩え
安楽行品第十四―――髻中明珠(けいちゅうみょうじゅ)の喩え
如来寿量品第十六――良医治子(ろういじし)の喩え
*2 特にこの三草二木の五種の衆生は、古来、以下のように解釈されています。
小草――人天乗
中草――声聞乗・縁覚乗〈二乗〉
大草――三蔵の菩薩〈小乗の菩薩〉
小樹――通教の菩薩〈大乗の菩薩〉
大樹――別教の菩薩〈大乗の菩薩〉
*3 みなが仏になる教えが一乗の教え・一乗の道であり、そのために相手に応じた三つの道が示されました。本章も、「開三顕一〈三を開いて一をあらわす〉」の教えについて、視点や表現を変えながら繰り返し説かれたものとなります。