●病は仏の「はからい」か
妙心尼御前御返事
【みょうしんあまごぜんごへんじ】
今回取り上げる『妙心尼御前御返事』は建治(けんじ)元年〈1275〉、もしくは弘安(こうあん)元年〈1278〉に書かれたお手紙で、お弟子の妙心尼による柿と茄子のご供養に対するお礼状です。妙心尼の素性については諸説ありますが、病気の夫がいたことが伝えられています。
その夫の病について、この『妙心尼御前御返事』では、まず「妙法蓮華経」のお題目*1が不老不死の良薬であることを、『妙法蓮華経』薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三の経文「閻浮提(えんぶだい)人の病の良薬〈この経は世界中の人にとっての良薬である〉」を引いて述べておられます。さらに「妙法蓮華経」の「蓮華」について、釈尊が雪山〈ヒマラヤ〉に生えていた蓮華を用いて五百人もの死者を生き返らせた故事が紹介されております。
しかしその一方で、病は仏の「はからい」である場合もある、ともこのご遺文では述べておられます〈「またこのやまひは仏の御はからひか」〉。
というのも、『涅槃経(ねはんぎょう)』と『浄名経(じょうみょうきょう)』〈『維摩経(ゆいまきょう)』とも〉には、仏道修行の一つとして「病の状態になること」〈病行〉が挙げられているのです。つまり、病気になることで、同じように苦しんでいる多くの人々の心に寄り添い、そして人生の苦しみを明らかにして、苦の克服を目指す仏道に人々を導くということです。そこで『涅槃経』では釈尊が食中毒で亡くなられた故事、『浄名経』では一般信者の理想像とされる維摩居士が病気で伏せていたエピソードが主題となっていますが、これら釈尊や維摩の病気も、人々の苦しみに寄り添うための「方便」である、とされます。
この「病気も仏道修行になる」という教えは、なかなか難しい説ではありますが、実感として分かる面もあるかと思います。たとえば随筆の古典として有名な『徒然草』では、友達になりたくないタイプの人として「病なく、身強き人」を挙げています〈第117段〉。つまり、病気の経験や体調を崩したことがある人は、人の弱さや苦しみを身にしみて分かっているので、つらい時に親身になって寄り添ってくれる。それにくらべると風邪一つひかず頑丈な人は友達甲斐がない、ということです。
確かに、自分の病気をきっかけにして他人の痛みに共感できるようになったり、また大病をしてから信心に目覚めたりする、という例は、身近にもよくあることではないでしょうか。そこで日蓮聖人は、仏典には「病気のある人こそ成仏する、と説かれている〈病ある人仏になるべきよしとかれて候ふ〉」と述べられ、「病気によって、仏道への信心が起こるのではないでしょうか〈病によりて道心はをこり候ふか〉」と説いておられます。
そして日蓮聖人は、「あなたの夫は、元々はそこまで信心深いようには見えませんでしたが、この度の闘病生活を通じて、毎日毎夜よく『法華経』を信心するようになった。この信心の功徳で、今まで作った小さな罪の数々はすでに償われて消え失せ、大きな罪もきっと消えることでしょう」と述べておられます〈「入道殿は今生にはいたく法華経を御信用ありとは見え候はねども、過去の宿習のゆへかのもよをしによりて、このなが病にしづみ、日々夜々に道心ひまなし。今生につくりをかせ給ひし小罪はすでにきへ候ひぬらん。謗法の大悪はまた法華経に帰しぬるゆへにきへさせ給ふべし」〉。
確かに病気は災難ですが、それすらも信心のきっかけとなり、仏縁を生む……ネガティブな出来事も、なるべくポジティブに捉え直して、前向きに人生を歩んでいくという知恵を、聖人は教えてくださっているのです。
注釈
*1
日蓮聖人は常に「題目の五字」、「妙法蓮華経の五字」等と用字しており、題目とは「妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」の救済の教法を意味するものである。