●「いのち」に幸あれ
乙御前母御書
【おとごぜんのははごしょ】
今回取り上げる『乙御前母御書』は文永(ぶんえい)十年〈1273〉、その題名にも名が掲げられている〈乙御前母〉という人物に宛てて書かれた書状です。
乙御前母は、鎌倉に住んでいた女性信者でした。早くに夫を失い、独身のままで幼い娘を育てているという、いわばシングル・マザーの身の上でした。なお、その娘の名が「乙御前」であることから、彼女は「乙御前母」と呼ばれています。
しかし乙御前母は、そのような苦しい生活の中にありながらも、『妙法蓮華経』〈以下『法華経』と略記〉と日蓮聖人への信仰は人一倍厚く、聖人が佐渡に流されている時には佐渡へ、聖人が身延に御入山なさってからは身延へ、遠く鎌倉から足を運んだという篤信者でした。
特に、娘の乙御前を連れて、佐渡に配流中の日蓮聖人を訪ねた逸話が有名です。当時、女性一人で、しかも幼子を抱えて鎌倉から佐渡まで来たったのは、相当に大変だったことでしょう。その心意気と信心の深さに心打たれた日蓮聖人は、彼女に「日妙聖人」として聖人の法名を与え、その徳をたたえた書状『日妙聖人御書』を著されました。この『日妙聖人御書』には、あの『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』に説かれた教義を先どりする内容も含まれており、聖人がいかに乙御前母に敬意を払っていたかがうかがえます。
その『日妙聖人御書』が書かれた翌年に、重ねて彼女宛に出された書状が『乙御前母御書』です。この書状は、乙御前母が『法華経』の信心によって必ず成仏するだろうと述べた後、インド・中国・日本にわたる偉大な仏教者たちのエピソードを挙げてゆきます。以下に見てみますと
- 釈尊のお弟子である目連尊者は、前世では千里の道を通(かよ)って仏法を聴聞していた。
- 章安大師灌頂(しょうあんだいしかんじょう)は、師である天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)のもとに、万里もへだたった所から通(かよ)って『法華経』を聴聞した。
- 伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)は、三千里の道を越えて中国に渡り習学した。
- 玄奘三蔵は二十万里の道を歩いてインドに行き、「般若経」を持ち帰った。
これらの先師のエピソードを挙げ、聖人は「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」つまり「道のりが遠いほど、その志の大きさが明らかになる」と述べ、「この日蓮が佐渡という遠いところに流されたのも、貴女の志の大きさを明らかにするためだったのかもしれません〈これまでながされ候ひける事は、さる事にて御心ざしのあらわるべきにやありけん〉」として、遠い道のりを越えて佐渡まで訪ねてきた乙御前母の志を讃えています。しかも、例として挙げられた先師たちは皆、仏・菩薩が人間の姿に化けてこの世に現れた存在です。そんな彼らに匹敵するような志を、かよわい身である乙尼御前が得ているのは驚くべきことだ、と重ねて称賛しています。
そしてこの書状は、「をとごぜんがいかにひととなりて候ふらん。法華経にみやづかわせ給ふほうこうをば、をとごぜんの御いのちさいわいになり候はん」として、彼女の幼い娘に対する温かい言葉で結ばれています。すなわち「娘である乙御前も大きくなったことでしょう。母である貴女が『法華経』を信心する功徳によって、乙御前の人生にきっと幸あることでしょう」と述べてあります。
ここでの「御いのち」とは、「人生」「生涯」というほどの意味です(春秋社刊『日蓮聖人全集』参考)。「いのち」という言葉に《生命》と《人生》という二重の意味が込められているのは、英語の ”Life” も同様です。
母から娘へつながれた生命。その尊さを思い、その人生に幸あれと願う。その願いをかなえるのが、『法華経』の功徳であり、『法華経』への信心であると、聖人は仰っているのです。