●『立正安国論』のプロトタイプ第一弾
災難興起由来
【さいなんこうきゆらい】
日蓮聖人は文応(ぶんおう)元年〈1260〉、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』〈以下『安国論』と表記〉を執筆し、鎌倉幕府に提出なさいました。当時の日本は、正嘉(しょうか)元年〈1257〉の鎌倉大地震を皮切りとして、天変地異、疫病の流行、飢饉などの災害が連続していました。そうした災害の原因を探り、そしてこの苦難を仏教によっていかに克服すべきかを論じた一書が、『安国論』です。
この『安国論』を執筆するにあたって、その下準備として書かれた草案が二種類残っています。それが『災難興起由来』『災難対治鈔(さいなんたいじしょう)』となります〈いずれも『安国論』の発表と同年の成立です〉。今回は、まず『災難興起由来』から取り上げます。
『災難興起由来』は冒頭部分が欠けているのですが、後半部分の十紙が現在も中山法華経寺に伝わっており、重要文化財の指定を受けています。本書がブラッシュ・アップされて後の『安国論』につながっていくわけですが、本書の段階で早くもすでに、聖人の重要な思想や論理が随所に見られています。
今日も残っている後半部分は、古代中国における、夏の桀王・殷の紂王・周の幽王*1の故事を引くところから始まっています。これらの王たちは悪王として知られ、数々の災難に見舞われた挙句に国を亡してしまったといいます。本書は、これらの悪王たちが災難を招き国を滅ぼすことになった原因は、儒教の「五常」〈仁・義・礼・智・信〉*2を破ったことにあると述べます。
さらに、儒教の「五常」は仏教でいえば「五戒」〔不殺生〈殺さない〉・不偸盗〈盗まない〉・不邪淫〈みだらなことをしない〉・不妄語〈嘘をつかない〉・不飲酒〈酒を飲まない〉〕に相当するとし、したがって仏教を破れば〈桀王・紂王・幽王のように〉災難を招き国を亡すことになる、と断じます。
そして「仏教を破る行為」として、念仏以外の仏教の教理実践をすべて否定する「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の過度な流行を批判します。専修念仏は、浄土宗開祖・法然上人〈1133-1212〉の著書『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』によって広まり、当時の日本で大いに人気を博していました。
この『選択本願念仏集』の流行に歯止めをかけなければならない、そうした専修念仏の宗派への支援〈布施〉は止めるべきである、と聖人は述べます。そして、こうした厳しい宗派批判を行なうことも時には必要なのである、と、主に『涅槃経(ねはんぎょう)』を引いて論証しています。
さらに、このまま何もせず事態を放置すれば、さらに災難が起こるとの警鐘を鳴らし、本書をしめくくっています。聖人は『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』の「国土乱れん時はまず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る」との文を引き、「まず鬼神が乱れ、次に民衆が乱れ、そして国土が乱れるという。今はもうすでに鬼神も民衆も入り乱れて災害が頻発している有様なので、これからさらに国土が乱れる大難が起こるだろう」と予想なさいました。
その「国土の乱れ」とは、いかなる災難か……その具体的な内容は、後に書かれた『安国論』で、ついに特定されるに至ります。それが「自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)」〈内乱〉と「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)」〈外敵の侵略〉と二難でした。『安国論』での聖人は、『仁王般若経』だけでなく『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』『薬師経(やくしきょう)』『大集経(だいじっきょう)』などの経典もあわせて引き、「このまま事態を放置していれば、さらに内乱と外圧が起こるに違いない」と、強く警告を発されたのです。
なおこの二難への警告は、文永(ぶんえい)九年〈1272〉の北条氏一門の内紛「二月騒動」、そして文永十一年〈1274〉のモンゴル軍襲来「元寇」が起こり的中したことで知られますが、その予言の萌芽は『災難興起由来』からすでに見られる……ということになるでしょう。そのようなわけで、本書は重要な文献といえるのです。
注釈
*1 夏(か)王朝は紀元前1900年頃から紀元前1600年頃に存在したとされている古代中国の王朝。桀王(けつおう)は夏王朝最後の帝。
殷(いん)王朝は紀元前17世紀頃から紀元前1046年に実在した古代中国の王朝。
紂王(ちゅうおう)は殷王朝最後の帝。
周(しゅう)王朝〈西周〉は紀元前1045年から紀元前771年に実在した古代中国の王朝。幽王(ゆうおう)は周王朝最後の帝。
*2 儒教で、人が常に守り行うべき五種の正しい道をいう。仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・信(しん)の五つの徳目をいい、この五つは永久不変の道理であり、徳であるから五常という。
なお、『仁王般若経疏』巻一では五戒を五常に配し、不殺生(ふせっしょう)を仁、不偸盗(ふちゅうとう)を智、不邪婬(ふじゃいん)を義、不飲酒(ふいんしゅ)を礼、不妄語(ふもうご)を信としている。〈日蓮聖人遺文辞典歴史編参照〉