ゼロから学ぶ日蓮聖人の教え

時代を見すえて

撰時抄

【せんじしょう】

日蓮聖人の代表的な著作「五大部」のうちの一つである『撰時抄』は、建治(けんじ)元年〈1275〉に著されました。

その前年、文永(ぶんえい)十一年〈1274〉は、聖人にとって、そして日本にとっても激動の一年でした。幕府は、蒙古〈モンゴル軍〉襲来の危険が迫ってきたことを受けて、かねてから外敵の侵略を警告してきた聖人に意見を乞うことにしました。そこで、佐渡に流刑中であった聖人を急遽赦免(しゃめん)し、鎌倉に呼び戻したのです〈四月〉。

呼び出された聖人は「蒙古は年内に襲来するだろう」と予言し、あらためて自分の立正安国の教えにしたがうよう、幕府の要人たちを説得します。しかし幕府はこれを受け入れなかったので、聖人は鎌倉を退出し、身延山に移りました〈五月〉。そして聖人の予言通り、十一月に蒙古は襲来し、いわゆる一度目の「元寇」である「文永の役」が起こりました。

この予言的中を受けて自身の正しさを確信した聖人が、その混迷の時代を見すえて導くべく書き上げた一書が、『撰時抄』となります。

本抄(ほんしょう)は、「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし。(それぶっぽうをがくせんほうはまずときをならうべし)」という一文で始まっています。

仏教を学ぼうとするならば、まず「時」について知ることが必要だ。今がどういう時代かを見きわめて、それに合った仏教を説かねばならない……これが本抄のタイトルともなっている「撰時」〈時を撰(えら)ぶ〉という態度です。

この「撰時」という態度は、それまでの仏教の常識をくつがえすものでした。一般的には、仏教を説くさいに見きわめるべきは「機」つまり聞き手のレベルだ、と考えられていました〈これを「対機説法」と言います〉。

しかし日蓮聖人は、個人それぞれに合わせて教えを説き分けるのでなく、その時代に共に生きている人々全員に対して有効な教えを説くべきだ、と考えました。つまり、個人の救済にとどまらず、社会全体の救済へと視野を拡大したのです。こうした社会的な視座は、『立正安国論』の段階から一貫して主張されている、聖人独特の仏教観です。なお、聖人に深く帰依していた童話作家の宮沢賢治〈1896-1933〉が遺した「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」〈『農民芸術概論綱要』〉という言葉は、この聖人の思想をみごとに表したものといえましょう。

仏教を広めるためには「撰時」、今この時代にふさわしい教えを見きわめて、この時代をともに生きている人々みんなを救わねばならない。ではそもそも、今は一体どのような時代なのだろうか……。

そこで聖人は、今は「末法(まっぽう)」という時代である、と定めました。末法とは、お釈迦様が亡くなって二千年後に突入するという、仏教が衰え堕落しきってしまう時代です。更に、その末法に入ってから五百年間は特に「闘諍堅固(とうじょうけんご)」と呼ばれる、争いと災いが絶えない暗黒時代とされました〈『大集経(だいじっきょう)』参照〉。

当時、お釈迦様の没年は紀元前949年と算出されていましたので、日本では永承(えいしょう)七年〈1052〉から末法に入ったと考えられていました。したがって日蓮聖人が生きられた13世紀は、まさに末法、それも「闘諍堅固」の五百年に当たっていたのです。

では、末法の闘諍堅固というこの時代にふさわしい教えとは、一体何か……。それこそが、『妙法蓮華経』〈以下『法華経』と略記〉の題目「南無妙法蓮華経」である、と日蓮聖人は看破しました。

お釈迦様は『法華経』をお説きになった際、大地の底にいた名もなき菩薩たち〈地涌菩薩(じゆのぼさつ)〉を大勢呼び出して、その肝要を託されました〈如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一〉。この地涌菩薩のリーダーが、上行(じょうぎょう)菩薩という菩薩です。日蓮聖人は、「お釈迦様は、仏教のすべてを『法華経』つまり「妙法蓮華経」という五字にこめて、上行菩薩に持たせたのだ。そして将来、末法の時代が到来して、他のあらゆる仏教が衰え堕落してしまった時に、これを広めるよう指示したのだ」と理解しました。

この「妙法蓮華経」のお題目は、お釈迦様が亡くなってから日蓮聖人の時代に至るまで、広められたことがありませんでした。「南無阿弥陀仏」の念仏は盛んに唱えられていましたが、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える人はおりませんでした。

これはまだ「時」が来ていなかったからである。しかし今こそ末法の時代に突入したのだから、お釈迦様が上行菩薩に指示した通り、お題目を広めるべき時がやっと来たのだ!聖人はそう確信し、この「撰時」の結果、「仏の御使(おつかい)」として「南無妙法蓮華経」を広めることを宣言し、「喜ばしいことだ、楽しいことだ。不肖(ふしょう)この私が、人々の心という田に、お題目という《仏の種》を植えることになろうとは」〈「悦しきかなや、楽かなや、不肖の身として今度心田に仏種(ぶっしゅ)をうえたる。」〉と、感慨深く述べておられます。

自身の信念を貫き、時代が求める仏教を求め続けた聖人が、その手応えを確かめるようにして綴った一書……それが『撰時抄』なのです。

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