ゼロから学ぶ日蓮聖人の教え

『法華経』の心と命

御衣並単衣御書

【おんころもならびにひとえごしょ】

今回取り上げる『御衣並単衣御書』は、建治(けんじ)元年〈1275〉に書かれたお手紙で、信者である富木尼(ときあま)[から布と単衣〈裏地のない着物。かたびら〉を贈られた際のお礼状です。

まず布と衣にことよせて、鮮白比丘尼(せんびゃくびくに)という尼僧の逸話を紹介します。この鮮白比丘尼は、なんと衣を着た状態で生まれてきたといわれ、そして長ずるに及んで出家した際には、その衣が法衣に変じたのだそうです。

更に「衣」つながりの法話として、「柔らかで温和にして、耐え忍ぶ心を『衣』としてまといなさい」という『妙法蓮華経』〈以下『法華経』と略記〉の経文「柔和忍辱衣(にゅうわにんにくえ)」(法師品(ほっしほん)第十より)を引きます。

そしてこの『法華経』は、その一文字一文字が生身(しょうしん)の仏である、と続きます。しかも、その仏は、ただの仏ではないといいます。

「此の仏は再生敗種(さいせいはいしゅ)を心腑(しんぷ)とし、顕本遠寿(けんぽんおんじゅ)をその寿〈いのち〉とし……」

まず「再生敗種を心腑とし」から見ていきましょう。この文を理解するには、まず「三乗(さんじょう)」について説明しなくてはなりません。
従来、仏教の修行者には以下の3つのタイプが想定されてきました。

①声聞(しょうもん):「仏の声を聞いた者」、つまり釈尊の直弟子、およびその後継の教団〈部派仏教〉における修行者。煩悩を断じつくして、生死(しょうじ)を繰り返す世界〈輪廻(りんね)〉から脱出すること〈解脱(げだつ)〉を目指す。
②縁覚(えんがく):仏教によることなく、独力で解脱する修行者。「独覚(どっかく)」ともいう。
③菩薩(ぼさつ):自分の解脱だけでなく、他者を救済することを重視し、仏になることを目指す修行者。

この①声聞②縁覚③菩薩という修行者の3タイプを、「仏の道をゆく三つの乗り物」と表現して「三乗」といいます。

ところで前述したように、三乗のうち①声聞②縁覚は、まずは自分が輪廻から解脱して、苦しみの世界から逃れることを目指します。こうした目標設定は、伝統的な仏教の考え方としては当然のものでした。しかし次第に、「とにかく解脱したらば、仏になることも他者を救済することもないままに、さっさと跡形もなく完全消滅してしまおう」という、虚無的で独善的な解釈がなされるようになったのです。

こうした①声聞②縁覚に対しては「そんな虚無的で独善的な考えは、いわば『卑小な乗り物』すなわち『小乗』だ。他者を救済し、仏を目指す③菩薩こそが仏道修行者のあるべき姿だ」という主張がなされました。こうした主張は、小乗に対する「大乗(だいじょう)」の仏教と呼ばれます。

この大乗仏教の主張が強く表われているお経が『維摩経(ゆいまぎょう)』』、別名『浄名経(じょうみょうきょう)』です。『維摩経』には「大乗仏教の立場からすれば、仏にならない①声聞②縁覚とは、芽が出ない種、つまり腐敗した種〈敗種〉のようなものだ」という有名な経文があります〈「於此大乘、已如敗種」〉。こうして①声聞②縁覚は「敗種」と蔑称されるようになりました。

ところが、こうして「敗種」と切り捨てられた①声聞②縁覚にも成仏の可能性を認めるのが『法華経』なのです。『法華経』は、「①声聞だろうと②縁覚だろうと③菩薩だろうと、すべての存在は等しく成仏できる。つまり三乗の差別はなく『一乗(いちじょう)』があるのみだ」という一乗思想を説きました〈開三顕一(かいさんけんいつ)〉。こうして『法華経』は①声聞②縁覚に対しても「きみたちも芽が出る〈=成仏できる〉!」と説くことを主題とするゆえに、腐敗した種を再生させること〈再生敗種〉を心臓〈心腑〉とする、といわれるわけです。

ところで、この一乗思想による「再生敗種」の教えは、『法華経』の前半部〈迹門(しゃくもん)〉に集中的に説かれています。それでは、後半部〈本門(ほんもん)〉には、一体どのような教えが説かれているのでしょうか。

後半部〈本門〉では、「釈尊は生身の人間としてこの世界に出現したが、その正体は、太古の昔から生き続けてきた、永遠の命を持つ仏であった」と明かされています。このように釈尊の本来の姿を顕〈あきら〉かにし、その永遠の寿命を説いていることを「顕本遠寿」といいます。これが『法華経』の寿〈いのち〉である、と本書は述べているのです。

このように『法華経』の一字一字は、敗種ですら成仏させる力と、永遠の命とを持ちあわせている特別な仏様なのだ。そんな『法華経』をば、いただいた布で作った法衣と単衣とを着て読んだならば、きっと甚大な功徳があることでしょう……聖人はそのように御礼を述べておられます。

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